101 死の歌姫
再びロメオの意識は、古城を取り巻くその町の風景の中にすうっと降り立った。
さっきまではまるで高い建物の窓から外の風景を眺めているかのようだった陰鬱な町の中に、いま自分は佇んでいる。くすんだ色の石畳が足のすぐ下にある。
いままさに彼は、首相が起こした竜巻を路地から見送っているところだった。
カルナーナの首相とブリュー侯爵城の領民たちを乗せた竜巻は、中空で小さな点となり消える。
残されたのは一面に広がる赤黒い夕焼け空。
通りの向こう側で、広げた両手に長い長い大鎌の形の闇をまとわりつかせた黒衣の術師たちがゆらゆらと立ち上がる。
そして、その瞬間──。
町に響いていた歌が、突如としてその様相を変えた。
さっきまでは物悲しい柔らかな音色だったものは一瞬にして消え、想像もしていなかった禍々しい旋律にいきなり変わったのだ。
それは歌というよりも呪詛に満ちた叫びのようだった。低い声は不気味な野獣の咆哮のように空気を切り裂き、高い音は狂った女の金切り声のように耳障りな音を奏でる。あるいはそのどちらもが魔物そのものの声のようでもあった。
灰色の空気をかき回す不吉な音の波は高く低くうねり、何かの力を得て大きく響き渡る。
増幅の呪文はもう使っていないのに。
まるで町そのものが内包する負の魔力が声を増幅させているかのように。
厚い雲に覆われた空の下、石を積み上げて造られた古い建物らが、ジゼル・ブリューの歌声に共鳴してぐわんぐわんと重い唸りを上げ始める。そしてほどなく、周囲の建物は一斉に音を立てて崩れ始めた。
戸惑う彼は、頭の中をかき回すようなどす黒い音の波に耐えながら、王城を見上げる。
王城もまた、周囲の建物と同じように崩壊を始めていた。
幾つもの石の塊を落としながらもそびえ立つ古城。その頂に佇む女は彼を見下ろし、ひどく妖艶な微笑みを浮かべた。
それはいままで一度としてロメオが見たこともない表情だった。美しくあでやかで、悪意に満ちて禍々しい。
ここまできてロメオは起こっていることをやっと理解した。
これは1人の男の目を通して見たジゼルだ。
路地に佇むこの男の目には、貴婦人はこのように禍々しく邪悪なものとして映っているのだ。
呪詛に満ちた歌声も、ガラガラと大きな音を立てながら瓦礫と化していく町も、いままさに男が見ている白昼夢だ。
路地に立つ男の見ている夢に同調するのをやめた途端、ロメオの意識は男からするりと抜け出てしまう。
王城も、周囲の建物も、何一つ崩れていない。そこはただの静かな町だ。静かな日暮れの風景の中だ。ひっそりとした町並みは、薄青い夕闇に包まれ始めている。いまだ結界は破られていない。貴婦人は物悲しい歌をただ歌い続けているだけだ。
幻影を見ていた男の意識からロメオが離れたのとほとんど同じタイミングで、生身の男自身も大きく地面を蹴り飛び上がった。
驚くべき跳躍力で、狭い路地から一気に城の屋上に現れ、剣を抜きざまジゼルを背後から切りつけたのだ。
「民心を惑わすこの薄汚い魔女め!」
白銀の刃がひと筋、宙にきらめいた。たった一撃の剣がジゼル・ブリューの首と胴を綺麗に切り離す。幻影に心を惑わされているとも思えないほどの、鮮やかな太刀さばきだった。
跳ね飛ばされた首は大きな弧を描き、屋上の石の柵を越えてはる下方に落ちていった。途中でほどけた栗色の結い髪を、リボンのように長くゆらゆらとなびかせながら。
首を失った女の胴は、崩れ落ちるようにその場に倒れた。
「爵位を返上するなどと嘘をついてこの国を手に入れるつもりだったのだろうが、あいにくだな。首相を騙すことができても、わたしは騙されないぞ」
剣を鞘に収めながら男はつぶやく。ほんの一瞬前までその意識の中に取り込まれていた男の顔を、ロメオははっきりと見た。
近くから見たそれはロメオにとって見覚えのある顔だった。首相がハマースタイン家を幾度か訪問したときに同行していた専任護衛官。
先日のアントワーヌ・エルミラーレンの来襲のあと首相から貴婦人の警護を任されて、しばらく屋敷に残っていた男だ。
その立ち居ふるまいにより優れた武人であることをかねてからうかがわせていたが、ここで不気味な術師らとわたりあっているところを見ると腕のよい術師でもあったのだろう。
だが、いまは敵の術に嵌っていて、せまる危険に気づいていないようだった。
結界が消えた上空から、黒い霧が静かに押し寄せてくる。
さっき外壁の近くを歩いていた人が干からびた羊皮紙のようになって命を奪われた霧──亡きブリュー侯爵のなれの果てだとジゼルが言っていた霧だ。
きっと以前から、あの術師にはカルロ首相がジゼルを特別扱いしているように見えていたのだろう。いままでずっとそれを苦々しく思っていたのだろう。
首相がブリューの町を去ったとたんにジゼルがいきなり崩壊の歌を歌い始めたことに彼が違和感を覚えなかったのは、以前から彼がジゼルのことを疑っていたからだ。
自らの思い込みに強く囚われていたことが、幻影を操る相手につけ入られる隙につながったのだ。
そこまで考えてロメオは、己自身の失態について再び思いを巡らせる。
さっきのエルミラーレン公爵城でロメオが身体を乗っ取られたのも同様の理由だ。
自分自身の思い込みに囚われ、隙をつくってしまった。
いったい自分は、こんなところで何をしているのだろう──。
そんな思いが頭をかすめる。
赤毛の少女ロビンを護衛し貴婦人のもとに連れていくことが、彼に託された役割だった。それを放棄し、きちんとした備えもせぬまま妖しい城に無謀な乗り込み方をして、みすみす敵の手の内に落ちた。
そしてたったいま目の前で雇い主が命を断たれる瞬間を、ただ為す術もなく茫然と眺めているしかなかった。
ぶざまとしか言いようがない。
「これは過去に起こったことだと、わたくしは言ったはずよ」
すぐ横で再び貴婦人の声がして、ロメオは我に返った。
首を落とされたはずの人が、柔らかな微笑みを浮かべてこちらを見ている。
再び彼は、どことも知らぬ上空から先ほどの町を眺めおろしている。
「起こったことはあなたのせいではないわ」
「あんたは──知っていたのか?」
その先に待ち受けていた未来を。
すぐそのあとに、無残にも命を奪われてしまうことを。
ロメオの問いかけに対し、貴婦人は静かに首を横に振る。
「その瞬間に、すべてのエネルギーが尽きたことは感じたわ。でも、何が起こったのかまではわからなかったの」
まっすぐにロメオを見つめるハシバミ色の目は、何の曇りもなく森の動物のように澄んでいる。
「わたくしの命を奪ったのは、あの来襲者たちの得体の知れない黒い鎌ではなかったのね」
そうつぶやく言葉の響きも、凪いだ海の表のように穏やかだった。
「護衛はどうした? おれ以外のやつらはあんたについてブリュー侯爵領に来たんじゃねえのか? なぜあんたは1人だったんだ?」
「わたくしがかれらを遠ざけたのよ」
「遠ざけた? なぜ?」
「人魚のロビンから預かった"声"をわたくしがうまく使いこなせるという保証がなかったから。もしもわたくしが人魚の力を使うことができなければ、わたくし自身の魔力を使って領土に結界を張ることになったでしょう。そうした場合、魔力の顕現のための媒体として、かたわらにいる人たちの命を食いつぶすことになっていたわ」
「あんたの危機に役に立たねえのなら、何のための護衛だ?」
苛立ちを隠そうともせず、ロメオは言い返した。
「あんたに命令されたにしろ、こんな状況であんたのそばを離れるなんて馬鹿げてる」
自らの放つ言葉が、そのまま自分自身に刺さる。
たとえロビンの警護を言いつかったからといって、唯々諾々と従うべきではなかった。うっかりこの人のそばを離れるべきではなかったのだ。
この人は大丈夫なのだと、わけもなく思っていた。
ただの人よりもずっと強いのだと思っていた。
そのただならぬ魔力を自分以外の人々のために使い、その人自身が全くの無防備になってしまうことなど、想像もしていなかった。
他のやつらを責めることはできない。
他の警備兵は単に貴婦人の命令に従っただけだ。
それに引き換え自分はどうだ。
みすみす貴婦人のそばを離れておきながら、託された仕事をこなすことすらできていない。
ロメオはロビンを守るという職務を放棄して、エルミラーレン城に向かうジュリアについていったのだ。忠実に主人の命令に従っただけであろう他の護衛たちよりも始末に悪い。
「それは違うわ」
貴婦人は静かに微笑んだ。
「わたくしは雇用者としてではなく旧知としてあなたを信頼していたから、あなたにあの子を預けただけ。そして、あなたはあなたでロビンを信頼できる相手に託してきただけでしょう?」
マリア・リベルテのことか?
ジュリアとともに馬車に乗り込む瞬間、あの頼もしい革命家の少女を思い浮かべ、ロビンのそばを離れることに対して自分を納得させた。
いや、それ以前に二手に分かれて行動することに対して抵抗感がなかったのは、確かにあの少女への信頼感のためではあったはずだ。
しかしそう考えること自体が自分に対する言い訳のようにも感じた。
耳に快い言葉をさらりと紡ぐこの人は、確かに人心を惑わすとまではいかなくとも人たらしではあるのだ。
それで彼の胸の内に渦巻く苛立ちと悔恨が薄れるわけではなかったが、この状況でなお迷いのない穏やかな顔で信頼を口にする貴婦人に対し、感謝ともしれぬ感情が沸き起こる。
この人にはかなわない、とただ思う。
「マリア・リベルテ」
ロメオがかの黒髪の女闘士の姿を思い浮かべるとほぼ同時に、ジゼルはその名前を口にした。
「アーティの噂のお相手ね」
さっきから貴婦人は、ロメオの思念をすくい取っているとしか思えない言葉をつむぎつづけている。
いや、そうではない。恐らく貴婦人だけがロメオの思考を読んでいるわけではないのだ。お互いの考えていることをお互いに知ることができる。考えることと声に出すことの境界線が曖昧なのだ。
自分たちは過ぎた時間の中にだけある、どこでもない場所にいるのだ。
貴婦人がマリア・リベルテの名を知っているのは、招かれざる客アントワーヌ・エルミラーレンとの会食のときに同席していたジョヴァンニが、ゴシップ紙の話題をうっかり振ったからだ。
彼女はブランコ師アートの新しい恋人として、記事に取り上げられていた。
かつて襲撃事件のあと、アートは「あのときは正直ひやひやしたよ」とロメオに打ち明けた。
「憲兵の坊やときたらよりによって、ハルの逃亡の真相に迫るヒントを全く無自覚に口にするんだからね。あの記事の内容がもう少し詳しく話題にされていたら、あるいはハルの逃亡を手引きしていたことがばれて、ぼくは捕まっていたかもしれない」
ナイフ投げのハロルド・レヴィンが見世物小屋から逃亡した夜、ブランコ師アートはハマースタイン邸の秘密の抜け穴を通って町はずれに出て、その手引きをしていた。
大きな川にボートを手配したのはマリアで、その場所までハロルドを連れ出したのはアートだった。
その日のために、アートとマリア・リベルテは何度も話し合い、計画を練り直した。
逃亡経路の下見も入念に行った。
ともに行動する彼らを見かけたどちらかの知り合いが情報を流したのか、ゴシップ記事に載るはめになったのだという。
それらの経緯を思い返したロメオに、目の前の貴婦人はもう一度微笑んだ。
「知らなかったわ。アーティだけじゃなくてあなたもマリア・リベルテの知り合いだったなんて。しかも彼女はアーティの新しい恋人ではなくて、仲間だったのね。なんだか──妬けるわね」
妬ける?
聞き違えかと思わずロメオはジゼルを見返した。
「だってあなたたちは本当は、恋人なんかより仲間をずっと大事に思っているでしょう?」
彼女はいたずらっぽく笑うと、言い加えた。
「いい男はみんなそう」
そこでついロメオはアルミラーレン公爵城にともに乗り込んだ小柄な少女の姿を思い浮かべ、すぐさま苦笑いを浮かべる。ジュリアはロメオの恋人ではない。ロメオだけが勝手に、一方的に気になっているにすぎない相手だ。
いや、そもそも恋人などいたためしのない自分と多くの女性にもてるアートを「あなたたち」とひとくくりにするのは、いくらなんでも雑過ぎる。
「いいえ、あなたもアートもいい男だわ」
なおもそう主張する貴婦人を、ロメオは遮った。
「おれのことはどうでもいい」
恋人か仲間か、など自分にとっては全く関係のない話であるし、論じようがない。
「だが、やつにとってあんたが大事じゃねえってのは、なんか違わねえか?」
大事という言い方でよいのかどうかはわからない。だが、アートはジゼルを気にかけていたし、いまも気にかけている。
「おれはあんたの最期ってやつを、やつに伝えなけりゃならねえ」
「まあロメオ、あなたがアーティに知らせてくれるの?」
そう目を丸くする貴婦人に、ロメオは真顔で頷いた。
アートとジゼルの関係は、恋人同士というには微妙に距離があった。身分や立場の違いというものもあっただろうし、ジゼル自身に放縦というか相手を1人に定めないところがあったことも、理由の一つだろう。が、それよりもなによりも、ジゼルが1人で大丈夫な強い人間であるところが大きかったのではないかと思う。
ジゼル・ハマースタインは常に強者だった。底知れぬ魔力を身の内に秘め、身分と財力と人脈をもち、このカルナーナで怖いもの知らずといってもよい立場にあった。
その強い人が、たかが正気を失った1人の術師にやすやすとその首を刈り取られてしまうことなど、だれが想像できたというのだろう。
ジゼルの最期を知ったときのアートのリアクションを考えると、ロメオは気が重くなる。恐らく自分以上に衝撃を受けるだろうと予想がつくからだ。
この上なく気が進まない上に、ロメオ自身が肉体をどこかに置き去りにした挙句中空から目撃したというこのわけのわからない状況を、アートが納得できるように説明できる気がまるでしない。説明するならするで、その前に一度ブリュー侯爵領を訪ねて何か証拠になるものを捜し出す必要があるかもしれない。
それでもアートに知らせずに済ませることはできないだろうと、ロメオは思った。
「……まったく嫌な役回りだぜ」
「ありがとう、ロメオ」
そう貴婦人は微笑み、重ねて主張する。
「あなた、やっぱりいい男だわ」