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碧い人魚の海  作者: 古蔦瑠璃
[一] 怪物の島と南の国 
10/110

10 ルビーの決意

 詰め所は大ホールのある建物の一角にあった。

 どうするつもりか聞きたいといった女の人の説明とは裏腹に、座長は最初から話し合いをする気などなかったらしく、建物の外にルビーを引ったてていって、冷たい井戸の水を頭からぶっかけた。

 足が消えて尻尾に戻ることを期待してのことだったようだが、ルビーは元の姿に戻って見せる気など毛頭なく、つんと顎を上げたまま、無言で澄ましかえっていた。


 確証はなかったが、元の姿に戻ろうと思えば、すぐに戻れると思う。

 ただ、もっと確証がなかったのが、いったん人魚の姿に戻ったあと、もう一度人間に変身できるかどうかだった。足首に嵌ったままのアンクレットがどう作用するのかがわからなかったからだ。

 今のルビーの姿は、アシュレイが命がけで届けた魔法が与えてくれた姿だ。だから、何があろうと陸の上ではとりあえず今の姿のままでいようと、ルビーは決めていた。


「ちょっと座長! ひどいんじゃないの?」

 集まってきたギャラリーの中に、おととい一緒に貴婦人の夕食に行った舞姫が混じっていて、座長に抗議してくれた。

「夏ももう終わりだし、夜は結構冷えるのに。可哀想に、人魚ちゃん、風邪引いちゃうよ」


「これが人魚と言えるか? どこも変わったところのない普通の人間じゃないか。普通の人間の女が見世物になるか?」

 座長は顔を赤黒くしてわめきたてた。

「人買いから大枚はたいて買い上げたんだぞ。あの貴婦人は一体どんな魔法を使ったんだ? ええ? どうあっても人魚の姿に戻らないなら、貴婦人に責任を取って買い取ってもらうしかないぞ、これは」


「がめついね、座長も。この夏で十分元はとったんじゃないの? 人魚の見世物小屋の入場料、めちゃくちゃぼったくり価格だったじゃん。それにあの奥様いつもびっくりするぐらい資金援助してくれてるんだろ。人魚一匹押しつけて、あの人の不興を買うことになったら、そっちの方が一座の痛手になるんじゃないかい?」


「むうう……黙れレイラ。たかが踊り子ふぜいが、生意気な口を利くのは許さんぞ」

 座長はくるりと振りかえって、大声を出した。

「こぶ男だ。こぶ男を呼んで来い。どこで油を売ってるんだあのうすらばかは」


 ロクサムは猛獣の餌やりを中断させられ、ルビーの水槽に溜める水を運ばされることになった。

 ガラス張りの特注品の水槽に水を張るのには大量の水を必要とする。ロクサムのほかに、怪力男や大道具係なども駆り出された。

 男たちは井戸と水槽の間を何度も往復させられ、水槽にはいつもの公演のときの倍ぐらいの量の水が入れられ、上部の縁のあたりまで溢れかえらんばかりになった。その中に、ルビーは投げ込まれ、上から蓋をされ、蓋に重しを乗せられた。

 座長からは、ヤケクソな雰囲気が漂っていた。人間の娘となってしまった人魚など、溺れ死んでしまっても別にかまわないとでも言いたげだった。


 地中からもたらされたばかりの水は、冷たくてとても澄んでいた。

 人魚はその中で手足を伸ばし、きれいなその水を深く吸い込んでみたい欲求に駆られた。

 だが、水が身体の中に流れ込んだ途端、変身が解けて元の人魚の姿になってしまう。少なくともこれまではそうだったから、ルビーは目を閉じて、静かに息を止めた。

 息を止めていても、水の冷たさがルビーには心地よかった。もとより氷山の流れる北の果ての海に棲んでいる一族なのだ。地下からやってきたきれいな水は、あの海の表面近くを流れる氷混じりの海水に比べたら、暖かいとすら感じる。

 ルビーの燃えるような赤毛が水のなかでふわりと広がり、絹のドレスのすそがゆらゆらと水に揺れた。彼女は一度閉じていた目を開け、静かなまなざしで周囲を見回した。


 騒ぎの中、ギャラリーとして集まって来た人の数は、既に一座のメンバーの半数ぐらいになっている。こちらを見つめる人々の、さまざまな表情がよく見えた。

 怒っているような顔で、水槽を睨みつけている座長。その横で、座長につかみかからんばかりに食い下がる舞姫の必死な表情。それを後ろから止めているナイフ投げは、意識してかせずか、決してこちらを見ようとはしていない。


 こぶ男がおろおろ顔で、水槽の周りをぐるぐる回るのが見えた。ルビーを助けたいのにどうすればいいのかわからないといった顔だった。自分の運んだ水の中にルビーが沈められているという事実も、こぶ男を苦悩させているようだった。


 不快そうに眉をひそめた顔。あっけにとられた顔。人ごととしてしか見ていない冷やかな視線。対照的に落ち着きのない視線。幾つもの視線の中に、期待を込めた眼差しが混じる。その表情から、一部の人々が何を期待しているのかをルビーは知った。

 彼らは、ルビーが溺れて苦しみ出すのを待っているのだ。


 残酷な見世物に対する期待と怖れ。動揺を隠すための無関心。同情。理不尽への怒り。それとはうらはらの刺激への欲求。他人がひどい目に遭わされることへの暗い喜び。矛盾する要素をはらんだ複雑な感情が、人々の視線の中にほの見えた。

 人魚の姿で人々の前に立ったときには決して感じたことのなかった、同じ人間に対してだけ向ける生々しい眼差しを初めて感じ、ルビーは不思議な心地がした。


 それでも、息を止めているのにも限界がある。ルビーは水槽の上に泳いで上っていき、内側から蓋を押してみた。びくともしない。

 このまま限界を超えたら、思わず水を吸い込んでしまうかもしれない。ここで人魚の姿に戻りたくはなかったが、どうしようもない。どうにかならないものだろうか。

 そう思ったら、左足首のアンクレットがまた、ちりちりと痛み始めた。結構痛い。ルビーは身体を丸めて、左手でアンクレットに触れてみた。ビリビリとしびれるような感覚が伝わってきた。


 そのうち息を止めていることが、だんだん苦しくなってきた。

 限界を感じ、水を吸い込もうとしたが、なぜか吸い込むことができない。吸い込もうとしても、水が流れ込んで来ない。まるで何かの薄い膜で、ぴったりと全身を覆われてしまったようだ。

 ちょうどそれは、ルビーが捕えられたきっかけとなったあの島で、空気の流れをあやつって追手の男たちの息をできなくさせたときのように。

 ルビーは水槽のガラスを、外に向かって叩き、息ができないと訴えた。


 座長はやっぱり怒ったような顔で、じっとこちらを見ている。ルビーの訴えに心を動かされた様子は全くなかった。やはり彼はルビーが死んでも構わないと考えているのだ。と思ったら、舞姫が座長につかみかかっていくのが見えた。彼女は座長の服の襟首をひっつかんで揺さぶった。

 

 視界の端に、遅れてやってきたブランコ乗りが写った。

 彼はすぐさまナイフ投げを促し、二人で水槽に向かってきて、蓋の上の重しを外して蓋を取った。

 上から力強い腕が伸びてきて、水槽の中からルビーは引っ張り上げられた。

 ブランコ乗りの手がルビーに触れた途端、水とルビーを隔てていた膜が不意に破れ、冷たい水が肺の中に流れ込んできた。ちょうど水を大きく吸い込んだタイミングで強引に引き上げられたせいで、床に降ろされたルビーは、身を折って激しく咳き込み、肺の中から水を吐きだした。


 ブランコ乗りは、水を吐くルビーの背中を叩いていたが、顔を上げて、怒り狂ってわめき散らす座長に向かって言い返した。

「見世物になればいいんでしょう。彼女をぼくのパートナーに育てます」

 一瞬座長はあっけにとられた顔になり、それから首を振った。

「パートナーって、今から技を仕込むには育ち過ぎてるんじゃないか、その娘は」


「やってみなければわからないでしょう。見たところこの子はまだ育ち切っていない。女と子どもの中間ぐらいに見えますから、十分間に合うとぼくは思います。それに、ここで水におぼれて死ぬのも、あとで軽業の練習に失敗して落下死するのも、死ぬことに変わりはない」


「しかし、おまえさんはパートナーを事故で亡くしてから、もう相方は要らないといって、ずっと一人でやってきたんじゃなかったのか?」

 さっきまで怒りで赤黒くなっていた座長は、ブランコ乗りの言葉でちょっと冷静になったらしく、考え込む顔になる。

「それに、どうせ新しく空中ブランコのパートナーを組むなら男か少年がいいと、わしは思う。おまえさんは女性客に人気がある。今さら女をパートナーにして、いたずらにほかの女たちを刺激することになるのはどうかと思うんだが」


「男と組むのは技が美しくならないからごめんですよ」

 ブランコ乗りはようやく咳き込みから解放された様子のルビーが立ち上がろうとするのを助けようと手を伸ばした。

「大丈夫かい? 赤毛ちゃん」

「人魚よ」

 そっけなく、ルビーはブランコ乗りの手を振り払った。

「赤毛ちゃんと呼ばないで」

「きみはもう人魚じゃない」

「人魚じゃないなら、元人魚でもいいわ。とにかく赤毛ちゃんと呼ぶのはやめて」


「ねえ」

 舞姫が、一歩前に出てきた。

「だったら座長、人魚をあたしにあずけなよ。一人前の踊り子に仕込んでやるよ」

「しかしなあ」

 座長はなおも納得いかないといった顔で腕組みをする。

「どっちにしても、秋の巡業にはもう間に合わんだろう。秋から大きな町を順に回って人魚でもうひと儲けできると踏んでたんだが。この際だから、市場に連れて行って売っぱらってもいいが、元値を考えると大した額にはならんだろうからなあ」


 座長の言葉に、そこに居合わせたメンバーは互いに顔を見合わせた。

「もし関節が柔らかければ、練習次第で身体をたたんで小さい箱に入るようになるかもよ」

「ナイフ投げを習わせたら意外と短期間でいけるかもしれんぞ」

 それまで黙っていた他のメンバーたちが口々に言ったが、座長は彼らの言葉を聞いているのかいないのか、ひとり言のようにつぶやいた。


「それともあれだな。市場で人魚を売っぱらって、そのはした金で、ブランコ乗りの相方になれそうな身軽そうで機敏そうな男の子を買ってくるかな」

「だから男はごめんこうむりますってば」

 呆れたという顔で、ブランコ乗りは肩をすくめた。

「連れてこられても、組みませんよ」


 舞姫が、後ろからそっとルビーの腕を引っ張った。

「こっちにおいで、人魚。早いとこ着替えないと、そんなずぶぬれじゃ風邪を引いちまうよ」

「平気よ。ありがと、舞姫」

 ルビーを水中から引き上げたときに、ブランコ乗りもずぶぬれになっている。人間である彼の方が多分寒いだろうと思い、ルビーは振り返った。


 ブランコ乗りもルビーの方を見ていたので、目が合った。と思うと、彼はにこりと笑って軽く手を上げた。

「着替えておいで、人魚。その間に座長とは話をつけておくから」

「あたしは───」

 ルビーはブランコ乗りの方に向き直り、まっすぐ立って、睨みつけるように彼を見上げた。

「空中ブランコ、やってみたい」


 見返すブランコ乗りは、ルビーの予想に反して、なぜか戸惑ったような、どこか途方に暮れたような表情になった。

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