01 人魚ルビー
危ないといつもいわれているのに、どうして海面にのぼっていってこの空が見たくなってしまうのか、ルビーは自分でも不思議だった。
日が昇っていって沈むまで、いや、日が沈んでからも月の表情に合わせてすら、海のおもては刻々とその色を変える。海の底にいるときは深く遠くから聞こえる波のとどろきが、海面に浮かぶと賑やかな交響楽となってその耳に届いた。
危ないといつもいわれているのに、海面にのぼっていくだけでは飽き足らず、カジキマグロのアシュレイに頼んで南の海まで連れて行ってもらうようになったのは、渡り鳥の群れの行く末を、どうしても見てみたくなったのがきっかけだった。
アシュレイはいつもルビーの頼みを断らない。彼のシュッとした背びれに手をかけて、人魚ではありえないスピードで海流を横切るときの疾走感はたまらない。
お姉さまたちも長老も、知らないのだ。人魚にとって北の海に比べて南の海の方が危険が少ないことを。北の海には人魚をつかまえようとして徘徊している漁師がいる。人魚にはいろんな用途があるらしい。食用。観賞用。愛玩用。それと、見世物小屋?
見世物小屋が何かをルビーは知らない。何かわからないけれど、閉じ込められるらしい。
北の海の漁師が血眼になって人魚を追うのは、食用として重宝されているからだと聞いた。なんでも人魚の肉を食べると不老不死になれるとか。本当に食べた人がいるのかどうかも、ルビーは知らない。
なぜならまず人間に人魚を捕えることはできないからだ。人魚の長老は不思議な力を持っている。大波を起こして船を転覆させることぐらいは、指一本でできてしまう。長老ほどでなくとも、少しだったらルビーも力が使える。小波を起こしてボートを転覆させるぐらいの力だったらあるのだ。
ある日、南の海の一角に、ルビーはサンゴ礁に囲まれた綺麗な島を見つけた。とてもとても緑の豊かな島。海を見下ろす崖の中腹一面に、見たことのない花が咲いているのを見つけて、どうしても上陸してみたくなった。
アシュレイは浅瀬には近づけないので海でたらふく小魚を食べてもらったあと、一番星が光り始める時間に沖で待っていて、そのあとルビーを連れて北の海の底まで送り届けてくれるように頼んだ。
魚はあまり深くものごとを考えない。アシュレイは二つ返事で請け負った。
浅瀬まで泳いで砂浜から迂回して、ルビーは島に上陸した。
ルビーは陸の上では人間の少女に姿を変えられる。ルビーの変身は完璧だ。なにしろ初めて陸に上がった12歳のときから4年間も、こっそり練習してきているのだから。綺麗なうろこに覆われた鮮やかな赤い尻尾はすんなりとした白い両脚に変わり、つま先には人間の爪と同じ桜色の小さな爪が綺麗に並ぶ。
海藻で編んだ袋から小さな靴を取りだして履く。服は以前どこかの島で干してあった白いチュニックを無断で貸してもらった。
盗んだともいう。
南の島で、お天気もよかったので、服はすぐに乾いた。着ている白いチュニックが風をはらんではたはたとはためく。空が青い。暖かい湿った海風が気持ちいい。ルビーの長いきららかな赤毛も風を受けてなびいた。髪の毛が乾いたころを見計らって、袋からひもを出してきて後ろで一つに縛る。
たわわに実った山ぶどうで腹ごしらえをしてから、黒曜石のナイフで大きなつる草を切って三つのつるをより合わせて丈夫な縄を編む。
崖の上で大岩か大きな木を探してこの縄を結わえつけ、それを命綱にして、花の咲いている場所まで降りていくつもりだった。
不意に海風がやみ、山の上からザアアアッと風が吹き下りてきた。風向きが変わる瞬間。
山おろしの風はひんやりとして乾いている。草の波がざわざわと、生き物のように揺れる。まるでルビーを誘っているみたいに。花の咲いている崖の中腹もいいけど、草の波を掻き分けて、丘の高いところに向けて登っていってみたくなる。
「何をしているの?」
すぐ後ろから、突然声をかけられて、ルビーは飛び上がった。
直前まで、人の気配なんか感じなかった。
なのに振り向くと、一人の少女がルビーの編みかけの縄を、興味深げに覗き込んでいた。
「なあに? 縄を編んでいるの? 塔に忍び込むつもり? どうやって塔の上に縄をひっかけるの?」
「塔?」
少女の言葉の意味がわからなくて、ルビーは聞き返した。
「あら、違ったの?」
少女はゆっくりとした仕草で首を傾げた。明るい夏の光のなかで、闇のような漆黒の髪がふわりと風になびいた。瞳の色も黒曜石のような黒。
大きな瞳に吸い込まれそうだ。一瞬ルビーはそう思う。
ルビーはちょっと怒ったような声で返した。
「むっ、無人島だと思ってた。ここ」
「無人島よ」
少女は笑った。
「わたし以外いない」
「あなたが住んでたら無人島って言わなくない?」
その質問には少女は答えず、重ねて聞いてきた。
「塔でなかったら何に使うの?」
「聞いてどうするの?」
ルビーはそう聞き返した。
崖の中腹の花の咲いているところまで行くため。そういえば済むことだったが、ぶしつけな質問に答えなければいけない理由がない。
それに、その前にはっきりさせておかなければいけない問題が一つある。
「ここはあなたの島なの? あたし、あなたの島に勝手に入ってきちゃったの?」
「モリオンよ」
突然少女は言った。
「え?」
「わたしの名前」
もう一度少女は微笑んだ。
「あなたの名前を教えて」
「えっ?……ルビー。ルビーよ」
少女の紡ぐ言葉が魔力を持っているかのように、ルビーは思わず自分の名前を口にする。
「ルビー。いい名前。あなたの尻尾の色にぴったりね」
ルビーは碧の目を見開いて少女を見返した。変身は完璧なはずなのに、どうしてこの女の子にはルビーが人魚だってわかるんだろう。
「わたしの名前は人には言わないでね、ルビー。あなたも人間に自分の名前を教えては駄目よ。人間の中には名前を知って支配しようとするものがいるから。それより人が来るからちょっと隠れてて。あとでね」
人が来る?
港も船着き場も家も何もないように見えるこの島に?
いぶかしげに聞き返そうとしたルビーの目の前で──。
不意に少女が消えた。
ルビーは目をしばたたかせる。まぼろし?
きょろきょろとあたりを見回したルビーは、確かに人の近づいてくる気配を感じた。ガサガサと草をかき分けて近づいてくる複数の足音。
黒曜石のナイフやらその他の道具やらを慌ててしまい、ルビーは岩陰に身をひそめた。