6 火を待つ村1
ルーヘルム領の最北端──人里離れたコービッツ村は、人口200ほどの静かな村だった。
藁葺き屋根の家々には夜が訪れると柔らかな灯りがともり、どの家からも家族の笑い声が漏れていた。
その一つ。
暖炉のぱちぱちと弾ける音が響く小さな家の中で、父と母、そして三人の子どもたちが夕食後のひとときを楽しんでいた。
母は赤子を胸に抱き、乳を含ませていた。
幼い二人は父の足元で「高い高い」をせがむ。
誰が見ても微笑ましい、温かい光景だった。
──だがそれは、唐突に壊れた。
「ぐぁぁぁぁあっ」
父親が、がばりと立ち上がったかと思うと、獣じみた奇声をあげ、子どもを力任せに振り払ったのだ。
「………パパ?」
壁に叩きつけられた子どもは、呆然としたまま動けない。
「ちょっと、あなた!?」
驚いた母親が止めに入る。しかし父の動きはさらに異常だった。
「がぁぁぁぁっ!」
彼は母の肩に噛みつき、肉を食いちぎらんばかりに歯を立てた。
「きゃぁぁあ」
悲鳴とともに母が床に倒れたかと思うと、次の瞬間、白目を剥いて小刻みに震えだした。
両親の変貌に、子どもたちは震えながら泣き声をあげる。
幸せな夜は、一瞬で恐怖に染まった。
*******
その頃。
「……いい匂い」
遥香は串焼き肉の匂いに敗北していた。
香ばしい色をしたそれは、遥香を引きつけて離さない。
「遥香! 何やってんだ、早く行くよ!」
エルダに腕を掴まれ、遥香はズルズルと引きずられるようにして歩き始めた。
この日、遥香はエルダと二人、街へ出ていた。
遥香の服を見繕う為である。
街の広場には露店がずらりと並び、人が溢れている。
(あれ、なんだろ!?)
見慣れない道具や装飾品に目を奪われ、遥香がキョロキョロしているとーー
「私は薬草を見てくるから、ここで服を選んでな」
エルダは、さっさと行ってしまった。
「えっ……ちょ!?」
取り残されたような心細さを覚えつつ、一人露店を眺める。
すると、
「まぁ、かわいいお嬢ちゃんだねぇ、この服なんかどうだい」
服屋のおばさんが、遥香に服をグイグイと押し当ててきた。
遥香は今年二十七だが、童顔ゆえに幼く見えることは自覚している。
だがーー
(お嬢ちゃんは、ないわ……)
苦笑いしながら、服を受け取る。
おばさんが押し付けてきた服は、意外にも手触りがよく、動きやすそうだった。
「これ、普通に欲しいかも」
手に取ってじっくり眺めていると、後ろから声が聞こえてきた。
「コービッツ村は、もう終わりだね」
「村人みんな、だろう?」
「魔女の呪いだよ、嫌だねぇ」
横目で見ると、買い物中の女たちが肩を寄せ合い、ひそひそと囁いている。
(魔女の、呪い……?)
聞き耳を立てる遥香に気づいたのか、服屋のおばさんが声を落として言った。
「ああ、辺境の村だろ。なんでも、集団で呪いにかかったらしいよ」
「呪いって……?」
「なんでも、奇声を上げたり、手足が黒くなったり……酷い有様らしいよ」
そう言い、服屋のおばさんは顔をしかめた。そして、
「神を敬わなかった罰さ。まったく、自業自得だよ」
吐き捨てるように言った。
(手足が黒く……か)
遥香は、なおもひそひそと続く会話を横目に、思考を巡らせた。
(なんだろ?)
血行不良、中毒、環境要因……。
――いや、感染症の可能性もある。
遥香は頭の中で原因を整理しながら、呟く。
「ま、呪いではないことは、確かだわ」
その瞬間。
ーーガシッ
強い力で腕を掴まれた。
冷たい革手袋の感触が、皮膚越しに伝わる。
(……なに!?)
振り向くより先に、耳元へ息がかかった。
「同行してもらいます」
低く、冷たい声だった。
「な、ちょっと――」
紺色の外套の男は無言のまま遥香を連れ、丘にある石造りの建物へと入る。
ーーバタン。
重い扉が音を立てて閉まった。
薄暗い廊下の壁には、青地に銀の獅子の紋章旗が掛けられている。
(なに、ここ……)
通されたのは、机と椅子が置かれた簡素な部屋だった。窓からは、淡い光が差し込んでいる。
その前に、一人の男が立っていた。
「連れて参りました」
革手袋の男が一礼し、静かに退室すると遥香はその男と二人きりになった。
男がゆっくりと振り向く。
長身で、隙のない体躯。整えられた栗色の髪と、こちらを射抜く鋭い栗色の瞳。
街で見かけた、あの騎士だった。
「お前が、触れただけで街人を治した“魔女”か?」
低く、落ち着いた声が遥香を問い詰める。
「……なんの、ことでしょう?」
遥香は乾いた喉で、どうにか言葉を絞り出した。
騎士は長いまつ毛を伏せて、続ける。
「報告によれば、森の薬師エルダの姪だとか……?」
穏やかな口調とは裏腹に、瞳はまっすぐ遥香を射抜いている。
逃げ場のない視線に、遥香は思わず目を逸らした。
「まあ、いい。私の名はレオニス。騎士団副団長だ」
そう告げると、彼は机上の書簡を手に取った。
「近頃、コービッツ村で村民が異常行動を起こしている件は知っているな?」
レオニスは書簡から視線を少し上げ、遥香をじっと見据えた。
「……いえ、知りません」
遥香は微かに首を振り、しらを切るように答えた。
「それは、おかしいな」
そう言うと、レオニスはわずかに口角を上げる。
それは、挑発するような、美しい微笑だった。
「先ほど街で、“呪いではない”と口にしていたそうだが?」
彼の整った唇から紡がれる言葉は、まるで試すかのようだった。
(聞かれてた……)
遥香は、ごくりと唾を飲んだ。
「……噂を、聞いただけです」
震えそうになる声を、必死に押さえ込む。
「奇声、発作、手足の変色。そういう話なら、呪いより先に疑うものがある、と思っただけで……」
遥香がそう言うと、沈黙が部屋を満たした。
レオニスは何も言わない。ただ、まっすぐに遥香を見ている。
その視線は、まるで刃のように鋭かった。
「例えば?」
短い問いが、遥香に向けられる。
「水源の汚染や、感染症……可能性はいくつもあります」
遥香の指先は震えていたが、自分でも驚くほど冷静な声が出た。
レオニスは再び書簡に目を落とした。その封蝋には十字架が刻まれている。
「村人の半数以上が発症している。正気を失い、家族に噛みつく者もいる」
淡々と読み上げるその声には、感情の揺れは微塵も感じられなかった。
顔を上げ、レオニスは静かに続けた。
「教会は“魔女の呪い”だと断じた。そして、勅命が出た」
レオニスは口を閉じ、ほんの一瞬だけ息をつく。
「村を――焼却しろと」
「な……っ!」
遥香は目を見開いた。
「村人は子供も含めて二百名」
平坦な声で告げられるその数字に、遥香は思わず息を呑んだ。
「……二百名?」
二百人――簡単に言うが、それは命の数だ。
「村に医者を手配しているが、未だ進展はない」
レオニスの瞳が鋭く細まる。
「だが、お前は違う。外から来た医術の知識を持つ者。呪いではないと言い切った」
レオニスは一歩、遥香に近づいた。
「証明してみせろ」
低く響く声が、やけに胸にずしりと重くのしかかる。
「呪いではないのなら、救えるはずだ」
「いえ、私には……」
荷が重い――遥香がそう言いかけた瞬間。
「戸籍の虚偽申請は、重罪だ」
レオニスは淡々と言った。
「匿った者も当然、同罪だな」
レオニスは微動だにせず、遥香の顔色をじっと見つめている。
「……っ」
脳裏に、エルダの苦しそうな顔が浮かぶ。
遥香は息を整えると、ゆっくりと視線を上げた。
「……わかり、ました」
レオニスの表情は変わらず、冷静な瞳だけが遥香を見据えている。
「引き受けるのだな?」
有無を言わせぬ低い声に、遥香は頷いた。
「はい。原因を突き止めます」
遥香の手のひらは、汗でじっとりと濡れていた。
ーーカーン、カーン。
窓の外では、時を告げる鐘が低く鳴り響いていた。
レオニスは静かに口を開く。
「期限は一ヶ月。間に合わなければ――」
「村は灰になる」




