24 悲しき流行4
三日ぶりの往診だった。
午前中の診察を終えたハンスと共に、遥香はリズの家を訪れた。
ドアを開けたリズの表情は、以前よりも明らかに憔悴していた。
奥のベッドへ向かう。
横たわる夫の顔は、血の気を失い、土気色に染まっている。
「あなた、先生が来てくださったわ」
優しく声をかけると、夫はかろうじて目を開いた。
「……ぁあ」
掠れた声。
意識を保てる時間は、確実に短くなっている。
「残念ですが、ここからはご本人の体力次第です」
ハンスの言葉に、リズは声を上げて泣き崩れた。
遥香はその背を支え、鏡台に座らせる。
その視界に、あの化粧品店の美しい化粧水が映った。
その時だった。
眠っていると思っていた夫が、苦しげに口を開いた。
「……リズ……今まで……すまなかった……」
リズが、はっと顔を上げる。
「親方が変わって……居場所がなくなって……それで……お前に……辛く当たった……」
一言一言を絞り出すように。
「こんな旦那で……本当に……すまなかった……愛している……」
言い終えると、夫は再び深い眠りに落ちた。
ーーそれは、まるで遺言のようだった。
「……っ……」
リズは目を見開いたまま、動けずにいた。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
次の瞬間、悲鳴が部屋を引き裂いた。
両手で頭を抱え、取り乱すリズ。
遥香は慌てて駆け寄るが、振り払われる。
「いや! いや! ごめんなさい! お願い、目を開けて!」
夫に縋りつき、何度も謝り続ける。
その姿に、遥香は言いようのない寒気を覚えた。
窓から差し込む橙色の夕陽が、テーブルの上を柔らかく染めていた。
椅子に座るリズは、顔を両手で覆ったまま嗚咽を漏らしている。
テーブルに飾られていた黄色い花は、いつの間にか力を失い、首を垂れていた。
遥香は、まだ泣き止まないリズを見つめた。
「……ひとつ、気になることがあります」
「気になること?」
ハンスが首を傾げた。
「吐き気から始まって、急激に衰弱する。これ、感染症の経過にしては、少し変なんです」
遥香は言葉を選ぶように言った。
「もしかして、外から何かを取り込んだ可能性は、ありませんか?」
遥香はゆっくりとリズを見た。
「いいえ……!」
リズは反射的にそれを否定した。
だが、その声は弱い。
視線が、無意識に鏡台へ流れた。
鏡台の上には、蓋の緩んだ小瓶が、ひとつ。
中身は、ほとんど残っていなかった。
遥香は、じっと瓶を見つめた。
リズは、視線を逸らした。
「……リズさん」
遥香が声をかけると、リズの肩がびくりと小さく跳ねた。
「もし、もしも、私の考えが間違っていたら……殴ってください」
遥香は胸の奥を締めつけられる思いで言葉を続ける。
「その瓶、中身がほとんどありません」
リズの肩が震える。
「旦那さんは、それを……?」
その瞬間、はっきりと息を呑む音がした。
ハンスだ。
「ど、どういうことだい?」
信じられないという表情で、ハンスが遥香を見る。
「ずっと、おかしいと思っていたんです」
遥香は、胸に溜め込んでいた違和感を吐き出すように語った。
「患者は、全員成人男性だけなんです」
ハンスの表情が、次第に険しくなる。
「……言われてみれば」
遥香は静かに頷き、続ける。
「感染症とは、考えにくい」
室内は重苦しい沈黙に包まれた。
耳鳴りのような静寂が、長く続く。
やがて――。
「……違う……違うの……」
リズが呟いた。
そう言いながら、涙が止まらない。
「……あの人が、先に……」
言葉は途切れた。
(やっぱり)
違うと言って欲しかった。
怒って、罵ってほしかった。
そうであってほしかった。
「どうして……」
遥香の声は、かすれていた。
「あの人、ある日を境に……変わってしまって……」
リズはぽつり、ぽつりと語り始める。
「優しかった手が、毎日私を殴るようになって……いつも不機嫌で……全部、私に……」
涙が、床に落ちた。
そのとき、遥香は気づいた。
前髪の奥――
かすかに残る、青い痣。
「そんな……」
遥香は、何も言えなかった。
「もう、私、どうしたら……っ」
リズはそう言うと、声を上げて泣き始めた。
「まだ、助かるかもしれません」
遥香は瓶を掴んだ。
そして、走り出した。
(間に合って――)
ーー夕陽が、赤く滲んでいた。




