19 血の伯爵夫人6
幼い頃から、マリーの日常には暴力がつきものだった。
彼女の生家では、ミスをした使用人が殴られるのは日常茶飯事であったし、
若干5歳で彼女は魔女裁判の公開処刑を“見世物”として見せられた。
父は、屋敷の中で気に入った使用人に手を出すような人物だった。
偶然、彼女がその場面を目にしてしまったことも一度や二度ではない。
そんな父だが、マリーにだけは優しかった。
だが、母には冷酷で――
母はいつも、誰にも見られぬ場所で一人、泣いていた。
十八歳で結婚し、ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、それも九年だけだった。
愛する夫は病に倒れ、マリーは再び一人になった。
広すぎる城で、一人、彼女はこう考えた。
――あの頃、救えなかった人たちを。
今度こそ、救えないだろうか、と。
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「奥様っ!」
侍女の声に、マリーはゆっくりと目を開けた。
「私……」
「大丈夫ですか? 苦しいところはありませんか?」
遥香が身を屈めて問いかける。
「ええ……大丈夫」
マリーは体を起こすとかすかに微笑んだ。
遥香は言葉を選びながら、こう告げた。
「落ち着いて、聞いてください。恐らく、マリーさんは……毒に侵されています」
「ああ、やはりそうですか」
マリーは驚くこともなく、ただ静かにそう答えた。
どこか――覚悟していたような声音だった。
遥香はマリーの手元に視線を落とす。
美しく整えられた爪。その一本にだけ、長い白い線が走っている。
(これは、恐らく)
ーーヒ素によるものだ。
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マリーは自室で静かに眠っていた。
遥香は、眼鏡の侍女と共に付き添っている。
「私はソフィと申します。結婚の際に、奥様と一緒にこちらへ参りました」
「ソフィさん……何か、心当たりはありませんか?」
ヒ素中毒は、長期間摂取することで起きる。
つまり――日常のどこかに、毒がある。
ソフィは、迷いなく答えた。
「奥様の財産を狙う者が、盛ったのでしょう」
(……もしかしたら、犯人が分かってるのかも)
先程のマリーの様子を思い出す。
遥香がそう考えていると、ソフィがぼそっと呟いた。
「亡くなった旦那様の叔母様が、時折ワインを持って様子を見に来て下さいます」
「叔母さんが……?」
遥香は、ぽつりと繰り返した。
ソフィによると、数いる親戚の中で、唯一マリーに優しく接してくれる人物のようだった。
(断定はできないけど、調べてみよう)
「これで、いいのか?」
レオニスが差し出したのは、銀色に輝く杯だった。
「ありがとうございます」
遥香は受け取りながら心の中で考える。
(この時代のヒ素には、不純物が混ざる。ならば――)
叔母から贈られたというワインを銀杯に注ぐ。
だが、銀は変色せず、そのままの色を保っていた。
もしヒ素が混入していれば、不純物と反応して銀は黒く変色するはずだった。
「……ワインではなさそうですね」
遥香は肩を落とした。
だが顔を上げ、静かに断言する。
「犯人は城内にいます。銀器で判定できることを知られれば、毒を盛るのをやめるかもしれません。だから――」
「分かった」
レオニスは即座に頷いた。
余計な説明は必要なかった。
そして城にあるすべての器は、誰の目にも知られることなく――銀器へとすり替えられた。
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翌朝。
銀器に替えたはずの食器に、ひとつだけ黒い染みが浮かんでいた。
それはマリーの枕元に置かれた、銀杯だった。
「見つけました」
そう言うと、遥香は静かにその銀杯を持ち上げ、レオニスに見せた。
レオニスは無言で頷いた。
昨夜まではどの銀器にも異変はなかった。
遥香と騎士団が城を辞して宿屋に帰ってから、毒が盛られたのだ。
ーーそれならば、考えがある。
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その夜。
伯爵夫人マリーはベッドに腰掛け本を読んでいた。そこへ、一人の侍女がワインを運んで来た。
就寝前にワインを一杯だけ嗜むのは、彼女の日課であった。
「奥様、どうぞ」
侍女が盆の上のワインを差し出す。
マリーは礼を言い、ワインを受け取ると、口を付けようとした。
ーーその時
「伯爵婦人っ!」
寝室のカーテンの裏から、何者かが転がるようにして出て来た。
その瞬間、部屋の空気が張りつめ、時間が止まったかのように静まり返った。




