18 血の伯爵夫人5
意を決して部屋に踏み入れると、豪華な調度品に囲まれた室内が見えた。
その奥、長椅子に腰掛けるひとりの女性の後ろ姿が目に映る。
その人はゆっくりと遥香の方を振り向いた。
さらり、美しい金髪が揺れる。
「……っ」
遥香は息を呑んだ。その人は、あまりにも美しかった。
濃紺のドレスは夜空のように深く、装飾品の一つひとつが灯りを受けて静かに輝いている。
透き通るように白い肌、そして宝石のような深緑の瞳。
その目は、まるで遥香の内面を見透かしているかのように澄んでいた。
「ごきげんよう」
女性はゆっくり口を開いた。
遥香はビクッと震え、手にしていた笛をぎゅっと握りしめた。
「よく来てくれました」
伯爵夫人は、微笑みながら歩み寄ってくる。
そして、遥香の首元へ白い腕を伸ばす。
遥香の首に、ひんやりとした手が触れた。
(もうだめだっ!レオニスさん、助けて……!)
遥香はギュッと目を閉じた
だが、予想していた痛みは訪れなかった。
代わりに、ふわりと身体が引き寄せられる。
「……え?」
気づけば、遥香は柔らかな香りに包まれていた。
伯爵夫人に、そっと抱きしめられていたのだ。
状況が理解できず、遥香はぱちぱちと瞬きをする。
伯爵夫人マリーはそのまま、慈しむように微笑んで言った。
「今までよく頑張りましたね。もう大丈夫。いつまででも、この城に居て良いですからね」
「……え?」
恐怖で強張っていた遥香の身体が、少しずつほどけていく。
安心感が、胸の奥に広がっていった。
「ここ、ここに、女性たちは……」
かすれた声でそう尋ねると、マリーは静かに頷く。
「ええ、あなただけではありません。女性たちは、皆ここで保護しています。だから、安心して」
思っていた状況と、あまりにも違っていた。
(……ほ、本当に?)
遥香は安堵の息を吐いた。
それでも、笛を握る指は震えていた。
******
一方、その頃。
遥香と引き離されたクリスは、ひとり城内を探っていた。
辿り着いたのは、行方不明とされていた女性たちの部屋だった。
そこは噂とは正反対の、静かで整った空間だった。
明るく清潔な室内に並ぶベッド、外の喧騒とは切り離された、穏やかな世界があったのだ。
女性達に怯えた様子はなく、眠る者、談笑する者――皆、思い思いに過ごしている。
(……どういうことだ?)
噂と現実のあまりの違いに、クリスは眉をひそめる。
そのとき、ひとりの女性が気づいたように顔を上げた。
「新入りさん?」
彼女の顔には、痛々しい痣が残っていた。
クリスの視線に気づいた女性は頬を押さえて、続けた。
「ああ、これ? 旦那に殴られたの。普段はいい人なんだけど、お酒を飲むと……ね」
声を詰まらせる。
すると、別の女性が、そっとその背を撫でて言った。
「大丈夫。もう、旦那のことは忘れなさい。ここではマリー様が守ってくださるから」
クリスはその一言で、全てを察した。
*******
遥香はマリーと並んで座っていた。
「あの、マリーさんは、女性たちを保護していたんですね」
遥香の声には、申し訳なさが滲んでいた。
マリーはそれを責めるでもなく、ただ柔らかく微笑む。
「ええ、彼女たちは暴力や理不尽な扱いに苦しんでいました。だから、この城で安全に暮らせるようにしたのです」
遥香は小さく息を吐いた後、疑問が湧いてきた。
「あれ? でも、どうして街の人たちは、女性が“消えた”なんて噂を……」
その問いに、マリーはわずかに表情を曇らせた。
「街の不穏な噂は、もちろん耳に入っております。私の存在を疎ましく思う者が、流したのでしょう」
「わざと、ですか?」
「恐らくは」
遥香は息を呑んだ。
「私が女性たちを保護していることを、逆手に取られたのでしょう」
「そ、そんな、誰が……」
マリーは静かに肩をすくめ、どこか寂しげに微笑んだ。
「人間とは、ときに利己的で、愚かなものですから」
その横顔はあまりにも美しく、そして悲しかった。
遥香は、どんな言葉をかければいいのか分からず、ただ唇を噛みしめた。
その時。
ガタン、と扉が開く音が室内に響いた。
振り返ると、先ほどの侍女の後ろに、クリスと騎士団の姿があった。
「……えっ」
遥香は、驚いて立ち上がる。
どうやらクリスが事情を説明し、ここへ通されたらしい。
マリーは立ち上がると、優雅に一礼する。
「お目にかかれて光栄です、騎士団の皆様」
レオニスは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに表情を整え、騎士の礼を取る。
「こちらこそ、伯爵夫人。突然の訪問、失礼する」
(……なんて、絵になる二人なんだろう)
並んで立つレオニスとマリーは、まるで一枚の絵画のようだった。
美男美女。お似合い、という言葉が自然と浮かぶ。
そう思った瞬間――遥香の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「あれ?」
遥香はその違和感を振り払うように、そっと首を横に振った。
「……つまり」
静寂を破ったのは、クリスの声だった。
「今回の件を整理すると、こういうことですね」
その一言で、室内の視線が集まる。
「虐げられていた女性たちの間で、『城へ行けば助けてもらえる』と噂が広まっていた。」
「ええ」
マリーが静かに頷いた。
「暴力に耐えきれなくなった女性たちは、その噂を信じて城へ来た。そして、ここで保護され、穏やかに暮らしていたから、街へ戻らなかった」
「だから“消えた”なんて、誤解されたんですね」
遥香が腕を組み、納得したように呟く。
レオニスが顔を上げた。
「では、城に男性を入れなかった理由は?」
マリーは一瞬視線を伏せ、言葉を選ぶように口を開いた。
「ここにいる女性たちは、男性から暴力を受けています。男性の姿を見るだけで、過去を思い出してしまう方もいて……」
「だから、女性限定だったんですね」
遥香は大きく頷いた。
ーーその瞬間だった。
「……っ」
隣に座っていたマリーの体が、ふらりと前に傾いた。
「危ないっ!」
遥香は咄嗟に手を伸ばし、その体を支える。
「奥様……!」
眼鏡の侍女が、慌てて駆け寄ってきた。
「奥様は、近頃体調が優れないのです!」
遥香は、握ったままのマリーの手に視線を落とす。
背筋が、ぞくりとした。
(――これは……っ)
遥香は顔を上げ、はっきりと告げる。
「恐らく、マリーさんは毒に侵されています」
室内が、静まり返った。
穏やかな真相の裏で、新たな危機が静かに牙を剥いていた。




