17 血の伯爵夫人4
気付けば、空はすっかり夕闇に沈んでいた。
ロイの家を後にしたクリスと遥香は、境界の町へ向かう乗合馬車に揺られていた。
鳥の声もなく、風もなく、妙に静かだ。
馬車のガタンガタンという音だけが周囲に低く響いている。
(……静かすぎる)
その静寂は、唐突に破られた。
ガサリ、と。木々の向こうから、乾いた葉擦れの音が響く。
「……っ」
遥香は肩を震わせた。
「静かに」
クリスが囁く。
御者も異変に気付いたのか、馬車はゆっくりと停止した。
剣に手を掛けたクリスの視線が周囲を巡る。
風が木を揺らし、その隙間で
ーー白い布のようなものが揺れていた。
白い影は、ふらふらとこちらへ近づいてくる。距離が縮まり、それが人影だと分かった。
「え、女の人……?」
髪は乱れ、服は裂け、裸足で歩いている。
そして、焦点の合わない目で、ぶつぶつと呟きながら倒れた。
「行かないと……早く……行かないと……」
次の瞬間、ぱたりと地面に倒れた。
「確認してきます」
クリスが一歩踏み出した、その時。
娘は突如、かっと目を見開き、クリスに向かって手を伸ばした。
「早く……城に……ぃっ!」
掠れた声だったが、確かにそう言った。
生きてはいる。だが衰弱が酷かった。
捲れたスカートの奥、細い脚には無数の痣が浮かんでいた。
「これは……」
遥香は目を見開いた。
娘を連れ、二人は急いで宿屋へ戻った。
灯りが見えた頃には、娘はほとんど意識を失っていた。
宿屋の扉を開けた瞬間、暖炉の明かりと人の声が二人を包んだ。
どうやら宿屋の一階は酒場になっているらしく、顔を赤らめた男達が陽気に騒いでいた。
その喧騒の中を縫うように受付へ行き、クリスは宿屋の主人に声かける。
「部屋をひとつ、頼みます」
主人は娘を一瞥し、鍵を投げてよこした。
「面倒は起こさないでくれよ」
その目に、心配の色はなかった。
ただ厄介事に関わりたくない。それだけだった。
******
二階には、視察から戻った騎士団が待っていた。
「何があった」
レオニスの鋭い視線が、娘の異変を捉える。
クリスは、娘をベッドに寝かせながら、状況を簡潔に報告した。
森で発見したこと、衰弱状態、そして――。
「“城に”か……城に一体何があるんだ」
レオニスは顎に手を当て、呟いた。
本日の騎士団の視察で得られた事は、城には女性しか入れず、一度入った者は戻らない、という事だった。
「あの城には伯爵夫人が住んでいるんですよね?」
遥香がレオニスに尋ねる。
「そうだ。隣の領地を治めていた伯爵の妻だ。二年前に未亡人となった」
(……貴族)
触れてはいけない存在。
だからこそ、人々は噂を囁くことしか出来なかったのだ。
「つまり、誰も中を見られない、ということですね」
遥香の言葉に、重苦しい沈黙が落ちる。
「僕たちが潜入捜査できれば、話は早いんですけどね」
クリスはそこまで言うと、視線を上げた。
「……へ?」
遥香に一斉に集まる視線。嫌な予感しかしない。
「許可できない」
即座にレオニスが立ち上がった。
「城内部の情報は皆無だ。戻った者もいない。潜入は極めて高リスクだ」
部屋の空気が一瞬で引き締まる。
クリスが口を開きかけたが、レオニスが目線だけで制した。
(正直、行きたくない……でも……)
遥香はベッドで眠る女性を見た。女性の服の隙間からは痛々しいアザが見えている。
「………私、行きます」
遥香は意を決して言った。
「さっき言ったことが聞こえなかったのか? 危険だ」
レオニスが低く言う。その声はどこか怒っていた。
「でも、誰か行かないと、またどんどん女の人がいなくなるんですよね?」
レオニスはその言葉に口を閉じて、目を逸らした。
その時。
クリスが唐突に立ち上がった。
「僕も行きますから!」
クリスの言葉に、遥香は耳を疑う。
「え、クリスさんが?」
レオニスも目を細め、低く問う。
「どういう意味だ、クリス」
クリスは真剣そのものの表情で言葉を続ける。
「僕1人では、無理があるので門前払いでしょう。ですが、遥香と一緒であれば潜入出来るかもしれません」
遥香はクリスを上から下まで、じっと見た。
淡い金髪に茶色の瞳。
その顔立ちはどこか童顔で騎士にしては、細めの体躯。
(ふむ、確かに、女装したら……見えなくはないかも)
レオニスは信じられないといった表情でクリスを見ている。
「僕が必ず遥香を守りますから」
クリスは遥香を見て言う。遥香もレオニスをじっと見つめる。
レオニスは静かに目を瞑り、肩で大きくため息をついた。
「そこまで言うなら、やってみろ。ただし、一刻経っても戻らない場合は強行突破で城へ踏み入る」
ーー交渉成立だ。
女性用の服に身を包んだクリスは、予想以上に違和感がなかった。
いや、むしろ可愛い。
「わ、私より、よっぽど女性らしいんじゃ……?」
遥香は心の中で泣いた。
騎士団の団員もクリスを見て一様に驚いている。
「ほほほ」
クリスは上品に笑い、女性に成り切っている。
「おお! 俺の娘には負けるが、なかなかかわいいぞ、クリス!」
隊長のギルバートがそう茶化している。
「えっ、隊長って娘さんいるんですか?」
クリスが目を見開く。
「おう、姿絵があるぞ! 見るか?」
そう言うとギルバートは首に掛けたペンダントを取り出すと、パカッと開けてみせた。
その中には笑みを浮かべた可愛らしい女の子の絵が入っていた。3、4歳頃だろうか。
「えーっ!隊長に似ず、かわいいですね!」
ロケットを覗き込んだクリスがそう言った。
その声を聞いた他の騎士達も次々に集まる。
「えっ、誰に似たんだ。」
「奥さんでしょ」
口々に勝手なことを言う。
「ばっかやろう! 俺に似てるから、かわいいんだろうが!!」
ギルバートはそう言うと、笑いながら若い騎士の首を腕で歯がいじめにする。
「隊長っ!ギブっ……!ちょっ、ギブです……っ!」
遥香はその光景に笑った。緊張が少しほぐれた。
*******
その夜。
遥香は城の前に立っていた。
月光に照らされた白い城壁は美しく、同時に不気味でもあった。
レオニスは、今だに納得がいっていないのか、どこか不機嫌そうだ。
「あの、もし何かあっても、私が決めた事なので……レオニスさんのせいじゃありません」
遥香は真剣な顔できっぱりと言った。
レオニスは少し目を細め、肩を落としてため息をつく。
「違う、心配しているだけだ」
低い声で、少し呟くように言った。
「少しでも危ないと思ったら、これで合図しろ」
そう言って、レオニスから小さな長い笛のようなものを手渡された。
遥香はそれを手のひらでグッと握ると言った。
「それじゃあ、行って来ます」
城の扉の前に立ち、扉が開くのを待った。
門番が二人を値踏みするようにじっと見つめ、口を開いた。
「お前たち、噂を聞いて来たのか?」
(……噂?)
遥香はこくりと頷いた。
「通れ」
衛兵が手で合図すると、城門はギギギ…と音を立て開いた。
(ここを通れば、もう二度と戻れないかも)
遥香は、目をぎゅっと瞑り、中へ歩を進めた。
ひんやりとした、石造りの薄暗い廊下を進む。
両脇に置かれたろうそくの光はゆらゆら揺れ、2人の影を写している。
しばらく歩くと、突如人の姿が現れた。
「………ひっ!」
黒い服に白いエプロン、髪を一つにまとめた侍女だった。
メガネの奥から値踏みするような鋭い眼差しがこちらを覗いていた。
女性はゆっくりと口を開き、2人に向かって言う。
「奥様がお待ちです。1人ずつ、着いてきなさい」
「……え?」
遥香は思わずクリスの方を振り返った。
クリスも一瞬眉を顰めたが、すぐに頷く。
「まずは、あなたから」
侍女はそう言うと、遥香を手招きした。
「……は、はい」
遥香は震える足を一歩前へ出した。
(大丈夫……大丈夫……)
小さく自分に言い聞かせながら、侍女の後に続く。
侍女は無言で石造りの階段を上がり、さらに奥へと進んでいく。
(どこまで行くの……?)
緊張で、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのが分かった。
侍女がピタリと止まった。
「ここで、待ちなさい」
扉の向こうからは、冷たい灯りと、かすかに人の気配がした。
「奥様がお待ちです」
侍女は、遥香の耳元で低く囁いた。
次の瞬間、ギギギ、と嫌な音を立てて扉が開いた。
部屋の奥からは、かすかに物音が聞こえてくる。
(もう、行くしかない……っ)
遥香は足を踏み出した。
――その瞬間、背後で扉が閉じる音がした。




