14 血の伯爵夫人1
雲が、うっすらと月を覆う夜だった。
町を見下ろす高台に、月を背負うようにして城がそびえ立っている。
その城を目指し、虚ろな目をした娘が、ふらふらと歩いていた。
服はところどころ裂け、足元は裸足だ。
「行かないと……早く……」
彼女の唇からは、呪文のような呟きがこぼれ落ちた。
一方――。
城の一室。 美しい青のドレスに身を包んだ女が、長椅子に腰掛け、月を眺めていた。
「奥様、今宵もまた一人、こちらへ向かっているようです」
背後に控える侍女の報告に、女は手にした血のように赤いワインを、くるりと揺らす。
「そう」
にっこりと、あまりにも優雅に微笑んだ。
その横顔は月明かりで照らされ、怪しく銀色に浮かび上がっていた。
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「うーん、なんで?」
広場での出来事から十四日。遥香は、自室に籠もっていた。
落ち込んでいたわけではない。抗菌薬の開発、そのためだ。
回転椅子事件で計画は一度頓挫したものの、彼女は諦めていなかった。土から抗菌薬を抽出する実験を、今日も地道に続けていた。
――コトン。
丸いガラス瓶を机に置く。
「抗菌活性が、低い……」
結果は失敗だった。
頭の後ろで手を組み、椅子の前脚をキィィと浮かせる。
(土に放線菌が少ないのかな……?)
その時だった。
「遥香ー! レオニスさんが来たよー!」
一階から、エルダの元気な声が響いた。
「は、はいっ!」
反射的に椅子を蹴って立ち上がり、階段を駆け下りた。
「すみません! お待たせしました!」
勢いよく頭を下げた遥香に、レオニスは返事をしなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
「な、何かおかしいですか?」
「……」
「あの?」
「その格好で外に出るつもりか」
「えっ?」
遥香は自分の姿を見下ろし、悲鳴を上げた。
「す、すみません! 薬を作っていたもので……!」
青いガウンを慌ててズボッと脱ぐ。
レオニスは一瞥しただけで、何もなかったかのように言った。
「今日はヨハンソンの館だ」
「あ、はい! 息子さんの経過観察ですね!」
「覚えているならいい」
そして、今度は遥香の頭に視線が止まる。
「……頭は、それで行くのか」
「あっ!」
慌ててキャップも外す。
「はは……これも、忘れてました……」
「行くぞ」
「は、はいっ! ただ今!」
こうして遥香は、今日も慌ててレオニスの後を追うのであった。
*******
「お待ちしておりました」
ヨハンソンの館に到着すると、執事が深々と頭を下げた。
案内された部屋では、青年が静かに椅子に座っている。
以前より顔色は良く、表情にもわずかに生気が戻っていた。
「坊ちゃんは、少しずつですが、お食事も摂れるようになりました」
白い髭を揺らしながら、執事がそう報告する。
「本当ですか!? 良かった!」
「ええ。しかし、まだ歩行は難しく……」
執事は椅子に座る青年に目をやると、眉を下げた。
(中和剤を飲み始めて、まだ二週間だもんね)
鉛が体内に蓄積された年月を思えば、回復に時間がかかるのは当然だった。
「中和剤の効果は、きちんと出ています。焦らず、気長に続けましょう」
遥香がはっきりそう言うと、執事はほっとしたように頷いた。
ーーガチャ。
突然、背後の扉が開いた。
「失礼いたします。旦那様がお呼びです」
扉を開けた侍女は、そう言うと静かに頭を下げた。
ヨハンソンの書斎へ向かう途中、部屋の前で足が止まった。中から、声が漏れ聞こえてきたのだ。
「例の錬金術師が、黄金を作ろうとしているらしい」
低い男性の声だ。遥香は、思わず耳を澄ませた。
「本当か!? 成功すれば、カネになるな」
興奮を隠さないヨハンソンの声が続く。
「成功すれば、投資は倍だ」
程なくして扉が開き、布を頭に巻いた男と、ヨハンソンが姿を現す。
「錬金術師って、本当にいるんですね」
遥香は感嘆の声を漏らした。
「ああ。胡散臭い者も多いがな」
レオニスがそんな遥香を一瞥して答える。
「……会ってみたいな」
その言葉に、レオニスが一瞬だけ言葉に詰まる。
「錬金術に、興味があるのか?」
遥香は目を輝かせ、何度も大きく頷いた。
(何か、化学的な材料持ってるかも……!)
客を見送った後、ヨハンソンが踵を返して言う。
「今回の件、何か礼をしたいのだが……」
「でしたら――!!」
遥香は一歩前に出た。
「私に、ぜひっ! 錬金術師を紹介してくださいっ!!」
両手をパンッと合わせ、迷いなく言い切った。
「だが、今隣の領はーー」
ヨハンソンは言いかけて口を閉じ、ゆっくり笑った。
「まぁいい……話はつけておこう」
こうして――遥香は、隣の領地へ向かうことが決定した。
扉が閉まり、遥香達の足音が遠ざかる。
ヨハンソンはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「あの娘は……いずれ、殺されるな」
ヨハンソンは静かに帳簿を閉じた。
「光すぎた石は、争いを巻き起こす」




