1 病院薬剤師
(熱い――っ 熱い、熱い……息が……できない……っ!)
炎が皮膚を舐め、頬がチリチリと痛んだ。
髪が焼ける匂いが、鼻を刺す。
「ごめん、なさい……っ」
掠れた声で、必死に"あの人"に言う。
両手は縛られ、動かない。
炎の向こうで、誰かが私の名を叫んでいる。
あの日、あの薬さえ作らなければ。
ーー全ては、あの日の炎から始まった。
*******
(あーもう、仕事やめたい……)
時計の針は、既に二十時を回っていた。
煌々と照りつける病院の蛍光灯の下で、この病院の薬剤師――桐谷遥香は、短く伸びをする。
「あれ? 先輩、昨日当直じゃなかったっすか? まだ帰らないんすか?」
背後から、場違いなほど明るい声が飛んできた。
振り返ると、後輩薬剤師の宮本が、やけにご機嫌な様子で立っている。
「帰らないんじゃなくて、帰れないの。点滴、まだ残ってるし」
「いや、まじ先輩尊敬っす。仕事に人生捧げてる感じで」
(……それ、絶対褒めてないよね)
パソコンのキーボードを打つ手が、無意識に強くなる。
「今日は、落ち着いてるね」
医療従事者の間で禁句とされている言葉を呟きながら、パソコンを閉じる。
「やめてくださいよ! それ、言うと絶対忙しくなるやつじゃないっすか!」
(さっさと薬作って、もう帰ろう)
「無菌室、使うね」
歌いながら薬の鑑別作業をする宮本を横目に、青いガウンに着替える。
「はあ」
大きなため息を吐き、滅菌用ガスバーナーに火をつけた。
静かに揺れる青い炎に、器具をかざし滅菌していく。
その時だった。
ーーコトン……
肘が消毒用エタノールのボトルに当たり、液体が作業台に広がった。
アルコールは器具の下を伝い、ガスバーナーの火へと走る。
「やば……っ」
慌てて倒れた容器を起こすが、遅かった。
――ボッ。
炎が一気に弾ける。
火は作業台をなめ、青いガウンにも燃え移った。
「……っ!」
熱が頬を刺し、視界が赤く染まっていく。
(苦し……っ)
誰かを呼ぼうとしても、声が出ない。足も、動かない。
音が消えた。
熱も、痛みも、遠ざかっていく。
ーーああ。
これ、多分死んだ……。
********
「……ん」
途切れ途切れだった意識が戻ってくる。
頬に触れるのは硬くざらついた感触、鼻を突くのは土と石の匂い。
「なんだ、こいつ、変な格好だな」
耳慣れない声がすぐ近くで響いた。
遥香はバッと目を見開く。
「え、なに……?」
視界に飛び込んできたのは、遥香を覗き込む群衆の顔だった。
粗末な布で身を包んだ男たち、頭巾を被った女たちが石畳の路地に集まり、自分を取り囲んでいた。
「まさか、魔女じゃないだろうな?」
小さな声は次々に広がり、ざわめきは一気に増した。
(え、ここ、どこ……? さっき、火に……)
遥香が周りを見渡した瞬間ーー
「うわっ、なんだ!?」
突然、遥香の背後から声が上がった。
一人の若い女性が、倒れるように座り込んだのだ。
隣の母親らしき人は声も出せず、ただオロオロと立ち尽くしている。
「はぁっ、はぁっ」
女性の呼吸は荒く、顔は青ざめ、手足が小刻みに震えていた。
「あれ、呪いじゃないか?」
「早く、神官様を呼んで来い!」
人々は女性を見ては、口々に叫んでいる。
(呪い……? いや、違う)
遥香は女性の指先に目を向けた。
白くなった指は、内側に折れ込むように硬直している。
呼吸は浅く、速い。
(……これ、過呼吸だ)
このままだと、手足が痙攣し、意識を失う。
遥香は女性に駆け寄ると、その両肩を支え、目線を合わせた。
「大丈夫、私を見て」
そう言うと、自分の呼吸をゆっくり見せる。
「吸って……吐いて。大丈夫、死なないから」
女性は最初は戸惑い、恐怖で体を震わせていたが、徐々に呼吸が整い、手足のしびれも和らいでいった。
「良かった、もう大丈夫ですよ」
遥香は笑顔でそう言った。
「あ、ありがーー」
隣の母親が震える声で礼を言いかけた、その瞬間だった。
群衆が、一斉に後ずさった。
誰かが、母親を遥香から引き離す。
「さっきまで、死にそうだったのに」
「触れただけで治ったぞ」
ざわつきは一気に増し、人々の顔は恐怖に染まっていく。
人々の目には、言葉だけで呼吸を制した姿は、異質にしか映らなかったのだ。
「魔女、だ……」
歯の抜けた老人が、震える指で遥香を指した。
「捕まえろぉぉ!!」
怒声が街路に響き渡った。
「え、なんで……っ」
気付けば、遥香は追われる魔女になっていた。
群衆は目を血走らせ、手にした石や木片を振り上げている。
「痛っ!」
背中に衝撃が走った。
振り返ると、拳大の石が足元に転がっている。
白衣には、赤い染みが滲み始めていた。
「魔女は、火炙りだ!!」
口元を歪めた男が、石を構え直す。
――ヒュッ。
石が遥香の頬を掠め、赤い線が走った。
「やめ……っ」
足がもつれ、石畳に膝を打ちつける。
皮膚が裂ける感触がした。
(……落ち着け、大丈夫)
出血量は、大したことない。
遥香が自分に言い聞かせているとーー
「神の裁きを!!」
一人の男が斧を振り上げ、迫ってきた。その目は、獲物を見つけた獣のように光っていた。
「……っ!」
(立てっ! 立たないと、死ぬ!)
震える膝を叩き、遥香は走った。息が切れ、肺が痛んだ。
古びた石造りの建物を曲がり、その脇の細い路地に身を潜める。
「はぁっ、はぁっ……もう、なんでこんなことに」
細い石畳の路地で息を切らしながら、震える声で呟いた。
その時。
ーーガタンッ
後ろで何かが倒れる音がして、体がびくりと跳ねた。
(やばい……っ! 見つかったかも)
遥香は息を潜め、体を小さく丸めた。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
自分の呼吸すら耳障りに感じる。
間もなくコツン、コツンという人の足音が聞こえてきた。
それは、確実にこちらに近づいて来ている。
(どうしよう、怖い……でも)
「もう、やるしか、ない……っ!」
遥香は前を見据えて立ち上がった。
冗談じゃない。
火に焼かれて死んだ次は、火炙りなんて。
ーー私は、薬剤師だ。
魔女と呼ぶなら、勝手に呼べ。
誰がそう呼ぼうと、薬と知識で、私は生き抜いてやる。
足音は、すぐそこまで迫って来ている。
影が、路地の入口を塞いだ。
「静かにしな。あんた、死にたいのか?」
低くしゃがれた女の声が、闇の奥から響いた。




