記録1-1羞恥心で死ぬ前に赤ん坊の言葉を習得しろ。女神の「贈り物」に対する合理的懐疑。
異世界に来てからの時間は驚くほど速く過ぎ去った。だが、転生者にとって、この時間は間違いなく最も苦痛なものだろう。 人の生死、輪迴において前世の記憶をすべて忘れ、白紙の状態からやり直すのには、きっと理由があるはずだ。
考えてもみてくれ。大人の意識を持ったまま赤ん坊になり、身の回りの世話もできず、会話もままならず、体も自由に動かせない。そんな状態で一、二年も過ごすなんて、見方を変えれば植物人間として生きるようなものじゃないか。 そうして……俺は人生の記憶がある中で、最も苦痛な時期を生き抜いた。
毎日、目を開けてできることと言えば、周囲の会話を聞いてこの世界の言語を少しずつ学ぶことだけだ。脳が真っ白な状態ではないせいか、本物の赤ん坊のように語感だけで言葉を習得することができない。 正直、学習の進度は遅かった。まあ、前世でも外国語の成績はボロボロだったしな。 そのせいか、他の子供に比べて言葉を発するのがかなり遅くなり、当時、世話をしてくれていたシスターをひどく心配させてしまった。
それだけでなく、他の子供たちと馴染めないことも、俺がこの修道院で「異端」とされる要因の一つになった。 体は新品だが、中身のパーツは老朽化しているんだ。同年代の子供が夢中になっている遊びも、俺にはどうしてもやる気が起きない。泥だらけになって走り回るくらいなら、修道院にある数少ない本を眺めている方がマシだった。
この世界観を把握することは極めて重要だ。今は修道院の中だけの生活だが、ここには電化製品の類は一切ない。夜は原始的なランプや蝋燭を使い、食事も粗末なものばかり。道具を見ても生活水準の低さが伺える。 だが、それだけでここが地球ではないとは言い切れない。地球のどこか、人知れぬ場所には、同じような生活水準の人々や、もっと過酷な環境に置かれた人々もいたはずだ。今の俺が知っている世界はあまりに狭い。この外にある世界を知るには、本に記された文字に頼るしかなかった。
修道院のシスターたちが日課をこなしている間、俺は唯一本が置かれている書庫へ行き、まだよく分からない本をめくる。初めてこの世界の文字を見た時、「ああ、やっぱりここは異世界なんだ」と実感した。見たこともない体系の文字だったからだ。 字体も統一されていない。活版印刷がまだ普及していないのだろうか。
俺は本をめくるのが速い。基本的には一ページずつパラパラと流していく。言葉は話せても、それはあくまで日常会話の範囲内だ。文字の読み書きなんて、今の俺には絵を眺めるのと大差ない。 文字だけの本もあれば、肖像画や挿絵がある本もある。中には抽象的な記号が並んだ不思議な本もあった。中二心がうずき、「もしかして魔法書か?」なんて期待してしまうが、やはり体系的な学習なしに文字を理解するのは無理だった。
そんな時、一人の少女が部屋に駆け込んできた。隅で本を読んでいる俺を見つけたのは、この修道院のシスターの一人、十五歳前後のエナさんだ。子供たちの間では一番優しい「エナお姉ちゃん」として親しまれている。
「レスト、やっぱりここにいたのね。どうしてみんなとお外で遊ばないの?」
修道院の食事は質素だが、動けなくなるほど飢えることはない。少し大きな子供たちは近くの森で食材を採ってくることもある。そんな中、ほとんど外に出ない俺は、シスターたちの心配の種になっていた。 中学生くらいの年齢なのに、その瞳に深い母性の光を宿しているエナさんを見ていると、なんだか不思議な気分になる。
「べん、きょう……するの」
俺は抱えていた本を高く掲げた。木製の表紙は今の俺には少し重い。それに、子供の喋り方を真似て自分の意思を伝えるのは、羞恥心で顔を覆いたくなるほど恥ずかしい。俺は本で顔を隠し、彼女の視線から逃げた。
「こんなに小さいのに聖典を読みたいの?」 「おねえちゃんたちが、まいにち見てるから」
エナさんは、こんな小さな子供が聖典に興味を持つなんて思っていなかったようだ。遊びよりも毎日の祈りの時間に好奇心を抱いている俺を見て、彼女は微笑んだ。
「いいわよ、じゃあお姉ちゃんが読んであげる。これは神様がこの地に降臨して、人々に幸せをもたらし、暗闇を追い払ったお話よ」
エナさんは優しい声で聖典を読み始めた。読み手が優しいエナさんで本当に良かった。もしこれが、年齢は近いが性格が正反対のエレナだったら、聖典でお尻を叩かれていたかもしれない。
聖典はこの世界における創世神話のようなものだった。そこには様々な種族が登場し、この世界が前世のゲームに出てくるような「ファンタジー世界」であることを教えてくれた。 この世界では、人型ではない亜人や獣人を単なる「悪」とは見なしていないようだ。小競り合いはあるものの、大規模な戦争は長い間止まっており、種族同士が共存している。 いわゆる「悪」については、聖典に「魔王」という言葉が出てくるが、歴代の勇者によって討伐されているらしい。魔王の誕生はそう簡単なことではなく、古今を通じても数回しか記録がない。その間隔も不定だが、少なくとも五百年以上は空いている。 そして最後の記録からはまだ二百年ほどしか経っていない。俺が生きている間に魔王が現れることはまずないだろう。となれば、将来的に俺の身を脅かすのは、人間の悪意や不慮の事故、そして「魔族」と呼ばれる魔物たちだけだ。
エナさんが聖典を読み進める間、俺は将来の方向性を真剣に考えていた。前世の知識で役立つものは少ない。すぐに使えそうなのは算数くらいだ。あとは体を鍛える訓練を予定に組み込まなければならない。 俺の認識が間違っていなければ、こういうファンタジー世界で口先だけで渡り歩けるのは、魔導師か上流貴族くらいだ。一般庶民の共通言語は、やはり「拳」だろうからな。
俺が一人で中二心を爆発させていると、聖典の内容も終盤に差し掛かった。そこを読むエナの表情は非常に敬虔だった。
「……ゆえに女神様は人々に贈り物を授け、人々が魔物に対して無力でぬよう計らわれたのです……」
聖典が静かに閉じられた。エナが「女神様の加護に感謝を」と独り言のように呟くのが聞こえる。 なぜか、俺はこの結末の部分に強い興味を引かれた。普通、この手の英雄譚で神が授ける加護は、勇者のような特定の個人に向けられるものだ。だが今のは「人類全体」への贈り物のように聞こえた。だとすれば、この世界の人々は特別な能力のようなものを持っている可能性がある。
「めがみさま? おくりもの?」
俺は必死に子供のフリをして、分からないという風にエナさんに尋ねた。 エナさんは本を置き、俺を抱き上げると、特有の優しいトーンで語りかけた。
「女神様はね、私たちが怖い怪物に負けないように、十歳くらいになると不思議な力を一つ授けてくださるのよ」
「ちから? なにそれ?」
その問いに、エナさんは少し困ったような顔をした。三歳の子供にどう説明すべきか迷ったのだろう。彼女はただ笑って答えた。
「それはね、一人ひとり違うの。レストも大きくなれば分かるわよ」
俺の脳裏には、前世のアニメに出てくるような天変地異級の能力が浮かんでいた。そんな期待を胸に、俺はこの世界での成長を続けていくことになる。




