2 カインの思い
エリス・ハートフィールド。
町の食堂の娘で、明るくて元気で、いつも笑顔で迫ってくる。
最初はただの厄介な女だと思った。
市場で助けただけ。食堂で絡まれていたところを止めただけ。別に特別な理由があったわけじゃない。目に入ったから手を伸ばした、それだけだ。
それなのに、彼女は毎日のように話しかけてくる。
「お疲れさまです!」
「今日は天気がいいですね!」
「これ、新しいお菓子です。食べてください!」
笑顔で差し出される包みを断りきれず、結局受け取ってしまう自分に、カインは苦笑するしかなかった。
「……本当に、しつこい」
女に困ったことはなかった。貴族の四男に生まれ、母に愛された記憶はなく、父からも特別な情をかけられたことはない。
だからこそ、女の愛情など「気まぐれな贈り物」くらいにしか思ってこなかった。
欲しがる相手に与え、飽きたら切り捨てる。それで困ることなどなかった。
だが、この娘は違う。
打算も見返りもなく、ただ真っ直ぐに近づいてくる。
しかも、嫌がられても気にしない。何度追い払っても翌日には笑顔でやって来る。
「騎士様は強いから、いっぱい食べて、元気でいてほしいんです」
そんなことを、まるで当たり前みたいに言うのだ。
どう反応すればいいのか分からない。受け取るばかりの自分が、どこか落ち着かない。
同僚の騎士にからかわれることもあった。
「カイン、お前もついに尻に敷かれる相手ができたな」
「違う。俺は別に……」
否定するものの、胸の奥には小さな引っかかりが残る。
――彼女の笑顔を、嫌だとは思えない。
気まぐれに助けただけのはずなのに。
彼女が差し出すパンを食べながら、カインは無意識にため息をついた。
また別の日、珍しくカインが一人で門番の任に就いていると、大きな荷物が走ってくるのが見えた。
「カイン様!」
エリスが笑顔で大きく手を振り、大きな籠を抱えて駆け寄る。
「今日は焼きたてのハチミツパンです!弟たちがうっかり焦がしかけたんですけど、外はカリッと、中はふわっと仕上がりました!」
差し出された包みを受け取り、カインは苦い顔をした。
「……またか。毎日来るなと言っただろう」
「はい、言われました。でも来ちゃいました」
「……」
「だって、会いたいんですもん」
にっこりと笑いながらそう告げるエリスに、カインは言葉を失った。
彼女は冗談めかしているようでいて、瞳は真剣そのものだった。
「俺に会って、何が楽しい」
「楽しいですよ。だってカイン様は格好いいし、助けてもらったときのこと、今でも忘れられません」
「……気まぐれだ」
「気まぐれでも、私にとっては大事なことなんです」
ぐっと胸に迫る言葉だった。
カインはどう答えればいいか分からず、視線を逸らす。
エリスは一歩、彼に近づいた。
「カイン様は、恋ってしたことありますか?」
その問いに、彼は思わず眉をひそめた。
「女と付き合ったことならある」
「好きだったんですか?」
「……さあな」
曖昧に返すと、エリスはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「じゃあ、私が教えてあげます!……私が、カイン様の初恋になれたらいいな」
――不意打ちだった。
心臓を鷲掴みにされたように、鼓動が跳ねる。
カインは無意識に口を開いた。
「……お前は、本当にしつこい」
「はい!でも、それが私の取り柄ですから!」
エリスは屈託なく笑った。
その笑顔が、なぜか目に焼きついて離れなかった。
翌日も、その翌日も。
エリスは朝から元気いっぱいにカインの前へ現れた。
「カイン様!おはようございます!」
「……またか」
「はい、またです!」
「今日は市場で見つけた花です。カイン様の黒髪に似合うと思って」
「……俺に花をどうしろと」
「飾ってください!部屋が華やぎます!」
「このスープ、味見してください!カイン様ならきっと正直な感想を言ってくれると思うんです」
「俺は料理人じゃない」
「でも舌は確かでしょう?だって強い騎士様なんですから!」
「夜はまだ暑いから、冷たいお茶を淹れて持ってきました!」
「……勤務中に飲むものじゃない」
「じゃあ休憩のときに!」
カインはため息をつきながらも、結局受け取ってしまう。
断ればいいものを、突き放せばいいものを――なぜかそれができなかった。
「カイン様のこと、好きですよ」
唐突に、エリスは言う。
「俺をからかってるのか」
「本気です!」
「……お前、もう少し慎重になれ」
「だって、本当に好きなんです。会えば会うほど、好きって思っちゃうんです」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれると、カインは思わず言葉を飲み込んだ。
どうして、こんなにも自分に向けられるのだろう。
他の女たちは、貴族の血筋だとか、容姿だとか、騎士という立場だとか……そういうものを求めて近づいてきた。
けれどエリスは違う。ただ自分自身に「好き」と言い続ける。
「……お前、俺の何がそんなにいい」
「ぜんぶです!」
「……答えになってない」
「えへへ。じゃあ、これからもっと探して教えますね!」
子どものような笑顔。
思わず口元が緩みそうになり、カインは慌てて表情を引き締めた。
「……勝手にしろ」
「はい!勝手に好きになります!」
エリスは嬉しそうに頷き、去っていく。残されたカインは、胸の奥が妙にざわつくのを押さえ込むしかなかった。
……エリスが差し入れを持ってきた日、詰所で鎧を脱いでいると、同僚の騎士たちがにやにやと寄ってきた。
「おいカイン、今日も食堂の看板娘が来てたな?」
「花だのスープだの……ずいぶん熱心じゃねぇか」
「羨ましいぜ、あんな可愛い子に毎日通われるなんて」
カインは顔をしかめる。
「……ただのお子ちゃまの気まぐれだろ」
「気まぐれで毎日は通えんだろ」
「それに、あの子の『好き』は本物だぜ。俺らでも分かる」
「お前、遊び人だから信用できねぇけどな。あの子は泣かすなよ」
からかうような、けれど真剣な視線が突き刺さる。カインは舌打ちし、視線を逸らした。
(……分かってる。けど、俺は……)
愛情の返し方なんて知らない。
ただの「心地よさ」に過ぎないのかもしれない。
けれど、エリスの笑顔を思い出すと、胸の奥が妙にざわめくのも事実だった。
翌日も詰所から出てきたカインを、いつものようにエリスが待ち構えていた。
「カイン様!」
ぱっと駆け寄り、籠を差し出す。
「今日は林檎のパイです!焼き立てを持ってきました!」
カインは思わず額に手を当てた。
「……お前、毎日来てどうするつもりだ」
「好きって伝えに来てます!」
「……」
あまりにも真っ直ぐすぎる答えに、言葉が詰まる。
昨日、同僚たちに散々茶化された顔が脳裏をよぎった。
「泣かすなよ」という言葉が、妙に重く残っている。
カインはしばし沈黙し、それからふっと息を吐いた。
「……分かった。なら――試しに付き合ってみるか」
その言葉に、エリスの翠の瞳がぱっと輝いた。
「……ほ、本当ですか!?」
「ただし、試しだぞ。気まぐれにしか応えられん」
「それでもいいです!」
食い気味に即答する。
カインは呆れ半分、苦笑い半分で肩をすくめた。
「……好きにしろ」
「はい!じゃあ今日から私、カイン様の恋人ですね!」
「……言い方ってもんがあるだろ」
「えへへ。でも嬉しいです!」
嬉しさのあまり跳ねるように笑うエリスを見て、カインはどうにも言い難い感情を覚えた。
その笑顔を自分が作ったのだと思うと――ほんの少し、胸の奥が熱を帯びた。