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1 エリスの恋

 朝の市場は今日もにぎやかだった。

 露店に並ぶ果物や香草の香りが風に乗って広がり、客引きの声と笑い声が絶え間なく交わる。籠を抱えたエリス・ハートフィールドは、人波をすり抜けるようにして歩いていた。


「今日は兄弟たちの好物も買わなきゃね」


 つい独り言が漏れる。五人きょうだいの長女として育った彼女にとって、買い出しは日常の一部だった。末の妹はまだ十歳になったばかり。弟たちは食べ盛りで、家族で生業にしている食堂の仕事を手伝うより先に皿を空にしてしまう。

 面倒を見るのは当たり前。だからエリスは、自然と笑顔で人と接することを覚えたのだ。


 帰り道、いつもと同じように石畳の大通りを通ると、詰所の前に立つ騎士たちが目に入った。銀色の鎧を纏い、剣を腰に下げた姿はやはり目を引く。

 その中にひときわ目立つ人がいた。


 短く刈られた黒髪。鋭さを帯びながらもどこか気だるげな黒い瞳。背は高く、貴族の血を引くと噂される端正な顔立ち。

 ――カイン・レオンハルト。


 彼の名は、町の娘たちなら誰でも知っている。騎士としても腕が立ち、そして何より女性の噂が絶えない男。

 エリスにとっても、ただ遠くから眺めるだけの存在だった。


 けれど、その日は違った。


「きゃっ!」


 突然、背後から誰かがぶつかってきて、腕に抱えていた籠が傾いた。中のリンゴがころりと転がり落ち、石畳を弾んで転がっていく。慌てて拾おうとしゃがみ込んだ瞬間――。


「危ない」


 低い声とともに、すっと伸ばされた手が、転がったリンゴとエリスを片手で受け止めた。


 顔を上げると、そこにいたのは黒髪の騎士――カインその人だった。至近距離で見ると、その瞳は驚くほど冷ややかで、けれど不思議に心を惹きつけられる深さを持っていた。


「……ありがとうございます!」


 思わず頭を下げる。


 カインは無造作にリンゴを籠へ戻し、ほんのわずか口元を緩めた。


「気をつけろよ。人通りが多い」


 それだけを言い残し、踵を返して仲間のもとへ戻っていく。


 去っていく背中を、エリスは呆然と見送った。胸の鼓動が妙に早い。

 助けられただけなのに、どうしてこんなに心臓が跳ねるのだろう。


「……すごい、格好よかった」


 思わず口元が熱くなり、エリスは頬を押さえた。それが、彼女の片思いの始まりだった。


それから数日後。

 昼時の食堂〈ハートフィールド亭〉は、いつもながらの喧騒に包まれていた。焼いた肉の香りと、煮込みスープの湯気、客たちの笑い声が入り混じり、活気に満ちている。看板娘であるエリスは、注文を取り、皿を運び、時には冗談を返して場を和ませる。


「エリスちゃん、今日もかわいいねぇ」


 顔を赤らめた常連客が言う。


「お世辞でも嬉しいです!おかわりはどうします?」

「うまいなぁ!じゃあエールをもういっぱい!」


 笑顔で受け流すのも慣れたものだ。


 けれど、その日は少し違った。

 酒に酔った旅の商人風の男が、エリスの手首を乱暴につかんだのだ。


「なぁ、ちょっと相手してくれよ。かわいいじゃないか」

「困ります。離してください!」


 声を張っても、周囲は混雑していて気づかれない。弟たちも厨房の奥にいて、すぐには助けに来られそうもなかった。


 ぐっと腕を引かれ、思わず体勢を崩したその瞬間。


「やめろ」


 低い声が響いた。

 掴んでいた男の手を、鋭い力が引き剥がす。視線を上げたエリスの目に映ったのは、黒髪の騎士――カインだった。


「町民に手を出して無事で済むと思うな」


 冷ややかな眼差しに睨まれ、商人は青ざめて手を引いた。


「ひ、ひぃ……す、すまねえ……!」


 逃げるように席を立ち、扉の外へ消えていく。

 残されたエリスは、胸の鼓動が速すぎて言葉を失っていた。


「……怪我は?」


 カインが短く問いかける。


「だ、大丈夫です……!あ、ありがとうございます!」


 慌てて深々と頭を下げた。

 ほんの数日前、市場で助けてくれたばかりなのに。まるで何かに導かれるように、再び彼が現れた。


「……よくあることだ。気にするな」


 素っ気なく言い残すと、カインは席に腰を下ろし、酒ではなく水を注文した。

 その姿を見て、エリスの胸は熱くなる。

また助けてくれた。しかも、私の店で。

 心の中で芽生えた小さな憧れは、確かな恋へと変わり始めていた。




 それからというもの、エリスは決めていた。

 せっかくなら、カインにアプローチしよう!


 朝の市場で見かければ笑顔で手を振り、騎士団詰所の前を通るときには必ず声をかけた。最初はちらりと視線を向けるだけだったカインも、あまりにしつこく話しかけられるので、つい短い返事をするようになった。


「カイン様、今日も見回りですか?」

「ああ」

「お疲れ様です! 食堂の新しいスープ、差し入れしますね!」

「……仕事中だ」

「じゃあ終わってからぜひ!」


 嫌そうな顔をされても、エリスは全く怯まなかった。妹弟の世話で鍛えられた図太さは、こういう場面で真価を発揮する。


 ある日、昼下がりの詰所前。


「はい、これ。うちの店のまかないパンです!」


 包みを差し出すと、カインは怪訝そうに眉を寄せた。


「……なんで俺に?」

「助けてもらったお礼です。それに、強い騎士様にはちゃんと食べてもらわないと!」


 にこにこと笑って押し付けるように渡すと、彼は一瞬黙り込み、やがて小さく息を吐いた。


「……しつこい女だな」

「しつこいのは自覚してます!」

「普通なら嫌がられるぞ」

「私は嫌われてません!」


 自信満々に言い切ると、カインは呆れたように目を細め、結局その包みを受け取った。


――勝った。


 心の中で小さくガッツポーズをするエリス。彼の態度は素っ気なくても、受け取ってくれた。それだけで十分に嬉しかった。


 そして、その日からエリスは差し入れの頻度をさらに増やした。焼きたてのパン、冷ましたスープ、果物の蜜煮。弟たちに「姉ちゃん、どんだけ頑張ってるの」と呆れられても気にしない。


 嫌がられても構わない。

 それでも近づきたい。もっと知りたい。

 カイン・レオンハルトという人を――。


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