プロローグ
夜は静かだった。
石畳の大通りは人影を失い、街灯代わりの魔晶灯が淡く白い光を零している。その下に立ち尽くし、カイン・レオンハルトは胸の奥が焼けるような感覚を噛み殺していた。
彼女がいた。
食堂の軒先で、妹弟たちに囲まれて笑っている。肩で切り揃えられた金色の髪が夜気に揺れ、翡翠色の瞳が眩しいほどに輝いていた。――エリス・ハートフィールド。あの笑顔を、自分は何度も間近で見ていたはずだ。けれど今は、遠くから眺めることしかできない。
どうして、手放したのだろう。
町勤めの騎士として、女に不自由したことはなかった。望めば誰かが寄ってくる。飽きれば別れ、気が向けば次を探す。そうやって過ごしてきた三十年の人生に、彼女は唐突に現れた。
元気で、真っ直ぐで、まるで陽だまりのように。何を与えられたわけでもないのに、隣にいるだけで心が温まる存在だった。
けれど、その温かさにどう応えればよいのかを知らなかった。
愛情を受け取ったことのない人間が、どうやって愛を返せばよいのか。考えることすらなかった。だからカインは、ただ受け取るばかりで、エリスの問いに答えられなかった。
「あなたにとって、私は何?」
そのとき何と答えればよかったのか。今ならわかる。けれどもう遅い。
彼女は泣きながら背を向け、二度と振り返らなかったのだから。
胸の奥に残っているのは、彼女の小さな手の温もりと、去り際の震える声だけだ。
もう二度と取り戻せない。けれど、気づいてしまった。
本当に欲しかったのは、数多の女の誰でもなく、あの笑顔のただひとりだったのだと。
カインは、ため息のように短い呟きを夜空に零す。
「……愛なんて知らないままで、生きてきた報いか」
魔晶灯の下、黒髪の騎士はひとり、後悔に縛られて立ち尽くしていた。
それが、カインとエリスの恋の結末だった。