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第97話:黒川 千尋

 応接室に張り詰めた空気が流れていた。

 春海先生の「久しぶりだね、一之石くん」という挨拶を合図に、やりとりが始まったが、コウはそれにすぐには応じなかった。

 代わりに、テーブル上の水の入ったグラスに視線を落とし、しばらくの沈黙を置いた。


 ——この間を、私は知っている。

 彼が何かを決意する時の、ほんのわずかな呼吸の乱れ。


 やがて、静かな、しかししっかりと芯のある声が響いた。


「……スティービー・ワンダーの “Stay Gold” という曲を、ご存知ですか?」


 唐突な問いに、春海先生も、東大の教授も、教育委員会の田嶋も、一瞬言葉を失った。

 誰かが小さく「知っています」とだけ答える。


「“いつまでも輝いていて”——そんな願いが込められた曲だと、僕に教えてくれた子がいました」

 一之石くんは、まっすぐ前を見据えていた。

 その目は、今この部屋にいながら、遠い過去の一点を見ているようだった。


「小学校六年生の、一学期のことです」

 淡々とした声色の奥に、硬く閉ざされた感情が潜んでいるのが分かる。

 私は思わず背筋を正した。

 安藤さんから断片的には聞いていた——だが、本人の口から、この“重たいもの”の核心を聞くのは初めてだった。


「海外から帰国して、僕と同じ小学校に転入してきた女の子でした。

 天真爛漫で、誰にでも笑顔を向けられる子。

 ……でも、彼女の周りの空気はすぐに変わっていった」


 春海先生が、言葉を挟もうとしたが、一之石くんの気配がそれを許さなかった。

 彼は続けた。


「その子が、僕に教えてくれたんです。

 “Stay Gold”——ずっと、変わらず輝いていてほしい。

 僕は、その意味を、本当に分かっていたのか……いや、そもそも分かる資格があるのかすら、今でも分からないままです」


 田嶋の表情が、わずかに動いた。

 教育委員会の席にある彼が、何かを思い出したように。


 私は視線を一之石くんから外さなかった。

 この先に続く話が、ただの思い出話では終わらないことを、全員が感じていたからだ。


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