第90話:黒川 千尋
重い扉の前で、一之石を振り返った。
「……行くぞ」
短く声をかけると、彼は無言でうなずいた。ポケットに片手を突っ込み、もう一方の手で書類ケースを軽く持ち直す。その姿は、教室に向かうときと何も変わらない。だが、これから入る場所の空気が、学校のそれとはまるで別物であることは、私も彼もわかっていた。
取っ手を押し、扉を開ける。
応接室の視線が一斉にこちらに向かう。
県の教育委員会幹部、副知事、東京から呼び寄せられた私が所属していた研究室の主任教授、そして遥。最後列には、地元紙の中条。今日、場を一之石のために進行させる、言ってみれば“狂言回し”は私の役目になりそうだ。
「こちらが、一之石孝和くんです」
私は淡々と紹介し、彼を先導して席に着かせる。
予めこっそりと用意していたスマホのチャットサービスをアクティブにする。同好会の連中にも配信を届けてやろうという訳だ。それからフリースクールの安藤さんや栞や大智達にも。
正面に座っていた春海礼智氏が、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「久しぶりだね、一之石くん」
彼の低く落ち着いた声が、部屋の空気をすっと引き締める。
「昨年春にも最終選抜合宿まで残っていた君だが、あれだけ優れた成績にも関わらず代表選出をしなかった件で、まだ怒っていないか正直心配していたんだよ」
「いえ。全然」一之石は如才なく返す。
「当県の公立小、中、高校で普通に学習してきた学生さんから、素晴らしい才能が埋もれる事なくその才能を開花させようとしているのは、全く当県にとっても名誉な事です」副知事は早速口出ししてきた。こんなヤツの名誉の為に一之石は数学をやっている訳じゃないんだが、こういうおっさんはどこにでも居て、こういうヤツに限って権力を持っている。
「君の数学的な才覚については、改めて言うまでもない。ただ——中学生の頃も、人との関わりを避けて一人で数学に打ち込む姿を見て、君のそういう“孤高”なスタイルに危惧を覚えるところがあったんだ。今日はその理由というか、君の背景となっていものが何なのかを教えてもらいたいと思っている」
一之石は視線を落とし、指先で書類の角を軽く整えた。
春海は畳みかけるように言葉を続ける。
「駅伝大会で急遽出場して、急増の連合チームを勝利に導いた話も聞いているよ。その際には仲間と力を合わせたはずだと思う。それは素晴らしいと思って君の成長を楽しみにしていたのだが、その大会の後からまた内省的になっているとも聞いた。何で君が苦しんでいるのかを、私たちは知りたい」
そのやり取りを、私は静かに見守った。
彼の中の「重たいもの」。それは私も、安藤さんから聞いた断片でしか知らないが、ある意味で数学オリンピックのような日の当たる場所の輝きとは全く真逆の、哀しい暗闇の物語となるだろう。
ふと、斜め向かいの県教育委員会幹部——田嶋克彦さんが、眉をわずかに上げた。
彼はじっと一之石を見つめ、そして小さく息を呑んだ。
——気づいたのだろう。
数年前、県内の小学校で発生した陰湿なイジメ事件。その当時、市の教育委員会に在籍していた自分の前に現れ、真っ直ぐな目で「助けてください」と自分の父親と共に訴えてきた少年の姿を。
そして、その少年と、今ここにいる一之石孝和が、同じ人物であることに。
部屋の空気が、少しだけ変わった。




