第88話:春海 礼智
宮本遥からの電話は、久しぶりだった。
「——春海先生、急で申し訳ないのですが、明後日開催予定の『特別公聴会』へのご参加をお願いしたいんです」
文科省と数学オリンピック協会は連携しているものの、文科省のエリート官僚である彼女がこうして直々に頼み事をしてくるのは珍しい。
内容を聞いて、私は眉をひそめた。
対象は——一之石孝和。
彼が中学生の頃から知っている。本選での圧倒的な解答速度と、独自のアプローチ。
だが同時に、あまりに孤高なスタイルゆえに、他者とほとんど全く交わらない危うさを感じてもいた。
「この場で……彼自身の口から、今抱えている“重たいもの”を語らせたいのです。私は日本における所謂“ギフテッド”の問題に取り組んでおりますので」
遥の声は、いつになく真剣だった。
私は少し考えてから言った。
「ならば——舞台を整えましょう。私だけでなく、彼に響く面々を揃えるべきです」
思い浮かんだのは、懇意にしている東大の基幹数学の研究室の面々。黒川千尋を送り出した研究室だけに、その扉を叩けば、快く引き受けてくれるはずだ。
主任教授は形式や肩書きに囚われず、才能ある若者に真剣に向き合う人だ。
孝和がどれほど“孤高”であっても、その眼差しを正面から受け止める相手になれる。
宮本遥による『特別公聴会』の準備が進む中、この動きを耳にした人物がいた。というよりも恣意的に宮本が情報を流したと見るべきだろう。
元文科省官僚の経歴を持つ副知事だ。
「——面白い。私も是非同席させて頂きたい」
その一言で、県の教育委員会幹部も出席を決断した。
表向きは“数学教育における人材育成の意見交換”という名目だが、実際はもっと濃い場になる予感がした。
予定参加者の名簿を眺めながら、私は胸の奥で小さく息を吐く。
これだけの面子が揃えば、一之石は逃げ場をなくす。
——それでも、彼が心を開くかどうかは、彼自身の意思次第だ。
だが今度こそ、私は彼に問いかけるつもりだった。
その才能を守るために、そして、彼が抱えている重たいものが何なのかを知るために。




