第87話:宮本 遥
新幹線のホームに降り立った瞬間、北陸の冷たい空気が頬を打った。
黒川からの電話は、短くも印象的だった。
「——あの子、あなたに会いたがってる」
“あの子”とは、一之石孝和。
数日前に黒川から聞いた話が、今も頭の中でくっきりと再生される。
数学オリンピックの二次予選を世界最高得点で突破した天才。
だが、その裏で、同級生との因縁や、フリースクールの少女・栞の復学問題に関わる複雑な渦に巻き込まれている——。
私がここまで足を運んだのは、職務上の関心だけではない。
私は初等中等教育局で、いわゆる「ギフテッド教育」、とりわけ飛び級制度の運用を担当している。
過去の飛び級学生が大学で孤立し、精神的に挫折する事例を何度も見てきた。
だからこそ、東大の飛び級入学を既に事実上確約されている逸材を対象として、大学前に欠ける部分を補うカリキュラムを組み込んだ「特進学校」の設置プログラムを用意してきた。
一之石くんの能力なら、間違いなくその要件を満たせる。
約束の喫茶室に入ると、千尋が既に待っていた。
そして、その隣の席に、一之石孝和くんが静かに座っていた。
思ったより細身だが、その瞳の奥には研ぎ澄まされた光があった。
「……初めまして。一之石くん。私は宮本遥。文科省で——」
「知ってます」
短く、しかしはっきりと返される。こちらを試すような目だ。
千尋が間に入るように話を促す。
私は、特進学校の仕組みと、飛び級後のリスクを最小化するための支援体制を説明した。
「……とにかく、一度見学してみませんか? あなたの力を最大限に活かせる環境です」
一之石くんはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「……見学に行ってもいい。ただし、一つ条件があります」
「条件?」
「会議体を設定してほしいのです。出席者は——数学オリンピック協会の幹部、あなた、そしてメディア代表として北陸日報の中条さん」
私は眉を上げた。
「何のために?」
「表向きは、オレの学校生活や数学オリンピック世界大会に向けての対策の進め方を直接ヒアリングする場、ということにしておきましょう。でも本音を言えば、県の教育委員会の幹部をそこに臨席させたいのです。だから……なるべく大げさな仕掛けにしてほしいですね」
千尋が小さく息を呑む。
一之石くんは続けた。
「その場でしか言えないことがあります。だから、舞台を整えてください」
私は彼の視線を受け止め、静かに頷いた。
この少年は、単なる天才ではない。
——舞台を選び、言葉を放つタイミングまで計算している。




