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第83話:黒川 千尋

 土曜の午前、数学準備室で書類を片付けていたら、ドアが勢いよく開いた。

 入ってきたのは、大河原保奈美。メガネの奥の目が、やけに落ち着かない。


「先生……柏木さんたち、駅前でビラ配りしてます」


 ——あぁ、やっぱりやらかしたか。

 声に出す前に、ため息が喉の奥で重く溜まった。


「“柏木さんたち”って、誰だ」

「柏木さんに、森川さん、藤堂くん……それと、村越くんも一緒です」


 村越まで? あの慎重な奴が……。

 その時、机の上のスマホが震えた。

 画面には学校の番号。嫌な予感しかしない。


「はい、黒川です——はい……はい……」

 相手の声を聞いた瞬間、眉間に皺が寄った。

 駅前でのビラ配りに関して、すでに保護者からクレームの電話が入り始めているらしい。

 しかも、「学校がやらせているのか」とまで言われている。


「チッ……最悪のパターンだな」

 受話器を置き、立ち上がる。


「大河原」

「はい」

「場所は駅前ロータリーか?」

「はい、東口です。午前中からずっと」


 もう迷っている暇はない。

 これは指導教員としても、現場の大人としても止めに行くしかない。

 放っておけば、彼女たちが本当に潰される。


「——行くぞ」

 コートを引っつかみ、足早に廊下を出る。

 大河原も慌てて後を追ってきた。


 外の冷たい風が頬を刺す。

 まだ午前の日差しの下、彼女たちがどんな顔でビラを配っているのか——

 そして、その行動がどれだけ危うい橋を渡っているのか、

 分からせなきゃならないと、胸の奥で固く思った。

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