第80話:波多野 結奈
冬の午後、フリースクールの空気は、暖房の温もりの中に不思議な緊張感が混じっていた。
今日は美羽ちゃんが、村越くん、大河原さん、森川さん、藤堂くんを連れて来ていた。私は予定をやりくりして合流したが、どこか胸がざわついていた。
机の上には色とりどりのビラの下書き。
栞ちゃんは、中学生レベルの数学のプリントを解いている。
美羽ちゃんは明るく、しかし何か決意を込めた表情で、入り口を見つめていた。
——その視線の先に、コウくんが現れた。
「……来た」
美羽さんが小さく呟く。
入口に立ったコウくんは、相変わらず感情を押し殺した顔をしていた。
彼はゆっくりと部屋に入ってきたが、その背筋は硬く、眼差しは微妙に冷たい。
「孝和くん!」
美羽ちゃんが声を弾ませると、コウくんは軽く頷いて立ち止まった。
次の瞬間、美羽ちゃんが栞ちゃんの肩を軽く押す。
「ほら、ちゃんと自分で言っておいで」
栞ちゃんは、一瞬だけこちらを見た後、まっすぐコウくんを見上げた。
その瞳は、子供特有の迷いと、それ以上に強い意志で満ちている。
「……私、学校に戻りたい」
静かな声だったが、教室全体がその言葉に飲み込まれた。
私は胸が締め付けられるような思いで、そのやりとりを見ていた。
コウくんは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた後、低く言った。
「……ダメだ」
短い否定。
その声は怒鳴りでもなく、諭すでもなく、まるで結論だけを告げる刃物のようだった。
「どうして……?」
栞ちゃんの目が揺れる。
「戻れば、また同じことが起こる。守れる保証はない」
「でも——」
「“でも”じゃない。君を守れない場所に、わざわざ行く必要はない。無理をしても…」コウくんはそこでしばらくためらってから―「心が壊されるだけだ」
その瞬間、栞ちゃんの唇が震え、次いで涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
近くに控えていた大智くんが立ち上がり、机を挟んでコウくんを睨みつける。
「なんだよそれ! 栞が戻りたいって言ってるのに、なんで勝手に決めるんだよ!」
コウくんは何も言わない。ただ視線を受け止め、表情を動かさなかった。
その沈黙が、大智くんの怒りをさらに煽った。
その様子を見ていた大河原さん、森川さん、藤堂くんの目が、次第に美羽ちゃんの方へと向かう。——栞ちゃんの切実な思いを前に、美羽ちゃんの考えの方が正しいのではないか。
そう感じた彼らの瞳に、孝和くんが自分の立場や予定を優先して、栞の復学を真剣に考えていないのではという疑念が浮かんでいくのが分かった。
美羽ちゃんが静かに言った。
「……孝和くん、あなたは、結局のところ自分の数学オリンピックの最終選抜合宿が一番大切なだけなんじゃないの?」
部屋の空気が、音を立てて凍りついたようだった。
私は言葉を飲み込むしかなかった。
否定も肯定も、この場ではすべてが刃になる。
孝和くんは視線を外さず、ただ一言だけ返した。
「……無駄になると分かっている事に、オレは賛成できない」
その言葉が正しいと、私はどこかで分かっている。
でも、今のこの場にいる誰もが、それを受け入れることができなかった。




