第72話:黒川 千尋
教室の奥で子供たちが問題集に向かっている横で、私は安藤さんを呼び止めた。
声は抑えながらも、視線はしっかり合わせる。
「それで……先日の件、その後はいかがでした?」
安藤さんは一瞬だけ視線を落とし、眉間に皺を寄せた。
「……教育委員会には相談しました。けど、正直なところ、あまり良い返事はもらえませんでした」
「“あまり良い返事”というのは?」
「盤石な対応は出来ない、とのことです。要は、復学して何かあれば、またフリースクールか転校で対応する――それが今の方針だそうです」
予想していたとはいえ、ため息が出そうになった。
県の教育委員会がこういう姿勢なのは知っていたけれど、現場で直接こう聞くとやはり重い。文科省官僚の遥が言っていた事は全部事実だったのだ。
隣で柏木が、そのやりとりを最後まで黙って聞いていた。
そして、ぷつりと切れたように声を上げる。
「……何ですか、それ。本気で言ってるんですか?」
その声は、普段の柏木からは想像できないくらい硬かった。
「イジメられた子が学校に戻りたいって言ってるのに、“また何かあったら逃げてください”って……そんなの、守る気がないってことじゃないですか」
私は視線を横にやって、柏木の表情を確かめた。真っ直ぐな怒りだ。
その感情は分かる。けれど現実は、理不尽と妥協で出来ている。
「……現場の先生たちも、守りたくても守れない事情があるんだよ」
そう口にした私の声は、思った以上に低く、苦い響きになっていた。
机の方では、一之石が静かに栞の算数の質問に答えている。
その横顔を、柏木も安藤さんも、それから波多野も白石も、皆が黙って見ていた。それは大きなバランスが崩れる寸前の静けさに過ぎないように私には思えていた。




