第67話:一之石 孝和
本選の会場は、金沢大学の角間キャンパスだった。
朝の冷たい空気が山間の道を抜け、頬を刺す。
冬枯れの木々の向こうに、白い息を吐きながら歩く受験者たちの列が伸びている。
講義棟に足を踏み入れると、暖房の熱と鉛筆の匂いが入り混じった空気が迎えた。
席に着き、配られた問題用紙を開く。
白い紙面に並んだ数式と記号は、現実のざらつきから切り離された異世界への入口だ。
――なのに、あのフリースクールの光景が、脳裏にこびりついて離れない。
安藤、あの教室、美桜にそっくりな栞という女の子。
怯えを隠しきれない瞳。
それを見た瞬間、自分の中の「もう一人の自分」が、鋭く囁いた。
――お前は、また守れない。
胸の奥に、黒い塊が広がる。
だが、不思議なことに、それはただ沈めるだけでなく、神経を極限まで研ぎ澄ませてもいた。
過去が今の自分を責めるのなら、せめてこの場だけは完璧でありたい――そんな意地が、思考を加速させる。
数列の漸化式、複素平面の幾何、極限値の評価。
次々に現れる問題が、挑発するように紙面に並ぶ。
だが、思考は淀まず流れ続けた。
脳内で記憶と論理が高速で結びつき、証明が形を成していく。
胸のざわめきが、解答を書く鉛筆の音とぴたりと同期する。
途中、教室の後ろからため息が聞こえた。
それでも、オレの世界はこの紙と鉛筆だけだった。
解答の最後の一行を書き終えると、指先にうっすら汗がにじんでいるのが分かった。
鉛筆を置いた瞬間、外界の音と空気が一気に押し寄せてくる。
封じ込めていた重さが、再び胸の中で形を取り始めた。
――終わった。
けれど、本当に戦っていた相手は、この試験なんかじゃなかった。




