第65話:黒川 千尋
土曜の午後、久しぶりに出てきた都内の本郷三丁目駅近くの古びた喫茶店。
外は薄曇りで、ガラス越しの光も色を失っている。店内では、古いジャズが低く流れていた。
向かいの席で、栗色の髪をひとつに束ねた女が、湯気の立つカップを片手にこちらを見ている。
「で、何の話? わざわざ私を呼び出すなんて、卒業以来じゃない?」
「まぁね。こっちも、ちょっと聞きたいことがあってさ」
宮本 遥。大学時代の同期で、今は文部科学省の初等中等教育局で働く官僚だ。
役所勤めらしいきっちりした格好だが、昔から気取ったところはなく、話はざっくばらん。とはいえ、部局の枠を越えて活躍するエリート女性官僚ってヤツだ。
「例の安藤って人から、イジメの現場とその後の経緯を聞いた。今はフリースクールの職員をやってるけど、あれは完全にイジメられた子供たちの“逃げ場”の役割を担ってる。で、現場の学校の方はどうなんだ?」
宮本はカップを置き、少し考えるように眉を寄せた。
「……率直に言えば、厳しいわね。教員不足は加速してるし、一方で保護者からのクレームや要求は年々増えてる。授業以外の業務も膨らむのに更に研修を押し付けられて、現場の先生たちは毎日がブラック稼業よ」
「その中で、イジメ対策は?」
「本当は一番優先すべき案件だけど……現実には、後手に回ることが多い。教師一人が抱えるクラスと事務仕事、行事、部活動、それに保護者対応。物理的に全部に目を配るのは流石に無理がある」
宮本の声は感情を抑えているが、その奥に苛立ちが滲んでいた。
「イジメは早期発見と迅速な対応が命なのに、その“早期”の段階で気づく余裕が現場から削られてる。数字や報告書の上では『対応済み』になっても、子供一人ひとりの心に寄り添う時間は、年々減っているわ」
「遥は現場出身じゃない、監督する側になるだろうけど、こういう実情は肌で感じてるってことだな」
「感じざるを得ないわよ。施策の立案にも現場の声は届くけど、予算と人員の制約が全部を押し潰す。財務省との駆け引きで予算は全部切り刻まれていくの」
あたしはブラックコーヒーをすすりながら、胸の奥に重たい鉛が沈んでいくのを感じていた。
安藤から聞いたあの子たちの話と、宮本の言葉が、同じ現実の両端を指しているのが分かる。
「……つまり、現場は今、本来子供を守るべき教師が一番守られてないってことか」
「そういうこと。だからそれでも現場に残る先生たちは、本当に尊敬に値すると思うわ」
窓の外では、淡い雲の切れ間からわずかに光が差していた。
その光が、あたしの背中を押すように見えた。
――今はまだ、何が出来るのか分からないにしても。




