第64話:一之石 孝和
フリースクールを出たあと、ビルの階段を降りながら「用事がある」とだけ告げた。
村越たちが怪訝そうにこちらを見たが、深くは追及してこなかった。
そのまま、彼らと別れて通りを一本曲がり、ビルの裏手から再び三階へ。
扉を開けると、安藤が机の上のプリントを片付けていた。
こちらを見るなり、わずかに眉が動く。
「……一之石」
「聞きたいことがある」
言葉は最短で、声は抑えた。
安藤は無言で椅子を引き、座るよう促したが、オレは立ったまま視線をぶつけた。
「なんで、今あんたがここにいる?」
一瞬、沈黙。
やがて安藤は、ため息を一つ落とした。
椅子の背にもたれ、天井を見上げるようにしてから口を開く。
「……あの後だ。教師を続けるのは無理だと思った。いや、自分で辞めたんだ」
淡々とした声の奥に、わずかな掠れがあった。
「それから教育大学院に入り直した。現場に戻るつもりはなかったけど、子供に関わる仕事はやめられなかった。今はここで、学校に行けない子を支える事にしている」
机の上に置かれた手が、微かに震えている。
その指先を見ながら、オレは自分の中の感情を確かめた。
同情も、理解もない。
「……そうですか」
吐き捨てるように言った。
「何をどうやったって、あの出来事は消えないけれどね」
安藤は目を伏せ、何も返さなかった。
その沈黙が、余計に胸をざらつかせる。
――許せない。あんたも。
そして、オレ自身も。
ビルを出ると、外の空気は夜の冷たさを増していた。
街灯の下、吐いた息が白く広がり、すぐに消える。
ポケットの中で、拳を固く握ったまま、オレは人通りのない道を歩き出した。




