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第58話:中条 麻衣

 長野の空は、冬らしい透明な青を湛えていた。

 天皇杯全国男子駅伝――その舞台に、佐伯陽介くんの姿がある。

 冷たい空気を切り裂くランナーたちの群れの中で、彼は淡々と、しかし確かなリズムで脚を運んでいた。


 沿道には全国から詰めかけた観客が並び、手袋越しに拍手を送っている。

 私もカメラを肩から下げ、レンズを向けた。

 シャッターの切れる音が、冷えた空気に小さく響く。


 あの連合チームの駅伝から、一か月余り。

 結奈ちゃんが最終区を一之石くんに託し、参考記録ながらも一位をもぎ取った、あの日の物語は、まだ鮮明に胸に残っている。

 だが、あの後の彼の変化もまた、周囲の人間なら誰もが気づいているはずだ。

 あれほどの走りを見せたのに、打ち上げには現れず、千尋によれば年が明けても必要以上に口を開かないらしい。


 今日、この長野の沿道にも、彼の姿はなかった。

 結奈ちゃんや紗月ちゃん、美羽ちゃん、それに村越くんも、笑顔で佐伯くんを応援している。

 けれど、その中にいるべき筈のたった一人の不在が、かえって鮮やかに浮かび上がる。


 佐伯くんのフォームは崩れない。呼吸も一定だ。

 やがて、カーブの向こうから集団を抜け出し、前を行くランナーを一人、また一人とかわしていく。

 ――あの時の連合チームで見せた、あの冷静で強い走りだ。

 レンズ越しに見ながら、私は確信する。

 彼はあの駅伝で、一之石くんの走りと結奈ちゃんの判断の両方を背負い、今もなお、その経験を力に変えている。


 結果は区間5位。

 記録としては上出来だが、それ以上に価値があるのは、全国の舞台で“あの連合チームの佐伯陽介”として走りきったことだろう。

 インタビューの場で、彼は簡潔にこう答えた。


「この舞台に立てたのは、自分の力だけじゃない。連合チームの仲間と、生徒会長の波多野と……最終区を走ってくれた一之石のおかげです」


 その言葉をメモしながら、私は思う。

 この物語は、まだ終わっていない。

 むしろ、あの日から続く何かが、今も水面下で流れ続けている。

 一之石くんの沈黙も、その流れの一部なのだろう。


 取材ノートを閉じ、息を吐く。

 吐息は白く空に溶け、背後では観客がゆっくりと解散し始めていた。

 佐伯は仲間たちと合流し、笑顔で肩を叩かれている。

 その輪の外に、一之石くんの姿はやはりない。


 ――彼には、数学オリンピックの予選を突破して欲しい。

 取材者としてではなく、一人の人間として、私はその姿を見届けたいと思っていた。

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