第57話:佐伯 陽介
吐く息が、白い霧のように顔の前で揺れる。
長野の空気は鋭く、肺の奥まで冷たさが突き抜ける。
沿道からの歓声が波のように押し寄せては消えていく。
耳に届きながらも、意識は別のところにあった。
一之石――あの駅伝の日以来、様子がおかしい。
あれだけの走りを見せたあと、打ち上げにも顔を出さず、必要最低限しか話さない。
もともと無口なやつだが、今はその沈黙が重い。
何かを押し込めて、外に漏らすまいとしているような。
最終区を任せたのは波多野だ。
オレはあの時、彼女の判断を心から支持していたし、今も間違いだとは思っていない。
けれど――その判断が彼に、想像以上の負荷を与えたのかもしれない。
「大丈夫」なんて軽く聞ける関係じゃない。
だが、あの時の走りを見たからこそ、放っておけない気持ちがある。
集中しろ、と自分に言い聞かせる。
今は天皇杯、8区間のうちのこの数キロの責任を果たす時だ。
前方に選手の背中が見える。
脚が重くなりかけた瞬間、無理やりギアを一段上げる。
フォームを崩さぬよう、肩の力を抜き、腕をしなやかに送り出す。
沿道の中に、見知った顔が並んでいた。
波多野、白石、柏木、大河原、そして村越も手を振っている。
一之石の姿は、やはりない。
心臓の鼓動とシューズの接地音だけが、世界のすべてになる。
――オレは、あの時の彼の走りを、無駄にしないために走る。
それが、今のオレにできる唯一のことだった。




