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第54話:一之石 孝和
予選会場のドアを押し開けた瞬間、冷たい風が顔に当たった。
その一陣で、さっきまで頭の中を満たしていた数式の鮮やかさが、一気に薄れていくのを感じた。
試験中は――良かった。
ひたすら与えられた問題に向かい、定理を引き出し、証明を積み上げていく。
その間だけは、余計な音も影も、オレの中の「もう一人」も、姿を消していた。
鉛筆の走る音と、自分の呼吸、それだけがあった。
だが、ドアを閉め、外気に包まれた途端、胸の奥に重しが戻ってくる。
肩に、背中に、じわじわとのしかかる感覚。
まるで水中から顔を出した瞬間、濡れた衣服の重さに気づくように。
吐く息が白く漂う。
目の端に、見慣れた街路樹や、通りを行き交う人影が映る。
それらは全部、現実だ。オレを再び縛りつける世界だ。
「……終わったな」
小さく呟く。
試験そのものの手応えは悪くない。けれど、その満足感は、さっきまでの輝きと一緒に遠ざかっていく。
気づけば、あの小六のオレが、街角の影に立っている幻が見えた気がした。
目を細めると、すぐに消える。
それでも、背中には確かにその視線が張り付いていた。
ポケットに手を突っ込み、ゆっくりと歩き出す。
足音は乾いたアスファルトの上に吸い込まれていくが、胸の内側の重さだけは、どうしても消えなかった。




