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第52話:一之石 孝和

 駅伝のゴールから、もう何日も経っている。

 あの歓声も、笑顔も、今では遠い出来事のように感じる。


 結奈や他のメンバーは、あの日を「勝った」と信じている。

 けれど、オレにとっては違った。

 勝利の余韻の中でさえ、鏡の向こうから小学六年のオレがじっと見ていた。

 ――楽しそうにしてんじゃねーぞ。

 その声は、歓声をも掻き消す。


 打ち上げには行かなかった。

 理由を聞かれれば「用事があった」とか「疲れた」とでも言えたが、本当はただ、あの場にいる資格がないと思っただけだ。

 その感覚は日が経つごとに深く沈み、日常の色を褪せさせていく。


 そんな中で迎えた、年明け1月の数学オリンピック地方予選の日。


 冷たい冬の朝、会場の体育館に入ると、独特の緊張が漂っていた。

 県内から集まった高校生たちが、整然と机に向かい、鉛筆と消しゴムを前に座っている。

 外の寒さと、会場内の暖房の温もりの境界が、背中を通り抜けていった。


 試験用紙が配られ、表紙をめくった瞬間、頭の奥で何かが切り替わる。

 見慣れた記号と数式、条件の列。

 仮定を立て、変数を置き換え、筋道を組み立てる――その作業に没頭するほど、心の奥で囁いていた声は遠のいていく。


 証明の道筋を見つけたときの、小さな高揚感。

 数字と記号だけで築かれた世界は、オレの中の地獄と唯一交わらない領域だった。

 ここでは誰も責めない。誰も奪わない。

 ただ問題と向き合い、解を導き出すだけだ。


 時間の感覚が消え、ペン先が止まるのも忘れて計算を続ける。

 気づけば、窓の外から白く淡い冬の陽が差し込み、机上の答案用紙を照らしていた。


 ――この瞬間が、永遠に続けばいい。


 そう思った自分に、少しだけ苦笑しながら、再びペンを走らせた。

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