第37話:柏木 美羽
孝和くんの背中が、あっという間に視界から遠ざかっていった。
その走りは淡々としていて、まるで息ひとつ乱していないように見える。けれど、腕の振りやストライドの大きさには、静かな闘志が確かに宿っていた。
私はサポートエリアを離れ、すぐに最寄りの市電乗り場へ小走りで向かう。
ゴールには間に合わないことは最初から分かっていた。けれど、だからといってこのまま何もせず立ち尽くすなんて、できるはずがなかった。
せめて少しでも近くで――いや、近くに行けなくても、最後まで彼を見届けたい。
ホームに着くなり、スマホでドローン中継を立ち上げる。
すぐに上空からの映像が目に飛び込んできた。
冬の空気を切り裂くように、孝和くんは前方二人の背後を一定の距離で追っている。距離は……おそらく50メートル前後。だが、その差はじわじわと縮まっていた。
「……速い」
思わず呟いていた。
無理やり詰めるのではなく、呼吸を整え、着実に前を追い詰めていく。まるで長い針が、静かに時計の文字盤を回っていくように、確実で、止まる気配がない。
車両が動き出す。窓の外で街並みが後ろへ流れていくのと同じ速度で、画面の中では孝和くんが差を削っていく。
その姿は、近寄るほどに相手が振り返りたくなるような、不気味な静けさをまとっていた。
中央商業ともう1校――二人の間隔が、微妙に詰まり始めている。
映像には映らないが、たぶん意識し合っているのだろう。互いに優勝だけを見据え、後ろの無名の選手を意識していない。
けれど、だからこそ怖い。あの背中は、油断している相手を捕まえるために、今まさに呼吸を整えているのだ。
市電の揺れに合わせて、私の手も小刻みに震える。
気づけばスマホを持つ手に力が入り、指先が白くなっていた。
中継映像の画角が変わった。ドローンが高度を落とし、カーブの先に大きな建物の影――競技場の外壁が見え始める。
画面下には、まだ50メートルほど前を行く中央商業と、さらにその少し先に優勝候補のユニフォーム。
「……詰まってる」
気づけば息を呑んでいた。
序盤では絶対にムリだと思えた距離が、今は手を伸ばせば届きそうなところまで迫っている。
あの二人は完全に互いを意識して、肩越しにチラチラと視線を送り合っている。
その隙を、孝和くんは逃さない。足取りはなおも安定していて、無駄な上下動が一切ない。腕振りは一定のリズムを刻み、まるで決められた計算式の答えをなぞっているみたいだ。
市電は大きくカーブを描き、駅に差し掛かる。私はドアが開くより早く立ち上がり、ホームに飛び出した。
……けれど、走り出すことはしなかった。
どれだけ急いでも、この瞬間の彼に追いつくことはできない。だから私は、スマホの中で彼の走りを追い続ける。
画面には、いよいよ競技場のゲートが迫る。沿道の応援の音が、マイク越しに大きくなった。
中央商業の監督らしき人物が、コース脇から身を乗り出して怒鳴っているのが見えた。
その声が届いたのか、前の二人の肩がぐっと上がり、スピードを上げる。
……でも、遅い。
いや、違う。速いのだろうけれど、孝和くんの加速のほうが、もっと鋭くて、重かった。まるで一本の糸を手繰るように、差が縮まっていく。
ゲートの影が画面いっぱいに広がる。
この中に入ったら、もうトラック勝負だ。
私は唇を噛み、目を見開いた。
――行け。ここまで来たら、もう何とか追いついて欲しい。




