第32話:一之石 孝和
タスキを受け取った瞬間、肩に乗ったのは布切れじゃない。残り8kmの責任だ。
前方50メートルに中央商業、そのさらに1メートル先に優勝候補のもう1校。
三位。普通なら上出来だが、オレにはここで満足する理由はない。
冷たい風が頬を切る。沿道の声援が聞こえても、頭の中は妙に静まり返っていた。
――まるで数学の試験中、最後の一問に取り組んでいる時みたいに。
ふと、『百万人の数学』に出てくる「アキレスと亀」の逸話がよぎる。俊足のアキレスが、のろまな亀を追いかけても、亀が先に進んでしまうから永遠に追いつけない――という古代のパズルだ。現実では追いつけるが、「追いかける」という行為は、時間とともにその難易度が変わる。
数字を出してみよう。
中央商業は時速 19.4 km/h(秒速 5.39 m/s)、オレは 20.5 km/h(秒速 5.69 m/s)。 差は 0.30 m/s。机上計算では、
t = 初期差 / 相対速度 = 50 / 0.30 ≈ 167 秒
距離にして約 0.95kmで追いつく。
――だが、これは相手がペースを変えない場合だ。
現実は違う。
オレが近づけば必ず相手は気づき、ペースを上げる。
相対速度は時間とともに減少する関数 v_rel(t) になる。
仮に、オレとの距離が縮むほど相手が加速して、相対速度が
v_rel(t) = 0.30 - k t
と線形に減っていくとしよう(k は加速の影響)。
この場合、追いつくまでの距離 D は、
D = ∫[0→T] v_rel(t) dt
この積分が 50 m(初期差)になる時の時間 T が、実際の追いつきタイムだ。
もし k が小さくても、机上の 0.95 km はすぐに 2 km、3 km と伸びる。そして現実では、加速と減速が区間ごとに波のように訪れる。
つまり単純な「割り算の答え」なんてあてにならない。
経験的に、この相手とこの展開なら、7km以上をかけて差をゼロに持っていく覚悟が必要だ。
前の二人は、連合チームの逆転なんて眼中にないだろう。今は互いにだけ意識を向け、「優勝はどちらか」と思い込んでいる。
だからこそ、オレは序盤3kmで20m詰める程度にとどめる。4〜5kmで30m以内に入り、二人が牽制し合い始めたら一気に踏み込む。ラスト数mで抜く。
アキレスは今、わざと助走を整えている。オレも同じだ。8kmという有限の舞台で、関数と積分が導く一点――勝利の瞬間を叩き出すために。




