第1話:一之石 孝和
高校生になったと言っても、オレの日常生活に大きな変化があった訳ではない。「基本的に一人」というスタイルは、中学時代と同じだ。
小学生の頃から変わらず月刊購読する数学雑誌のタイトルは中学時代に既に「大学へ」に変わっていたが、特集分野を読み解きながら毎月「数学力コンテスト」に応募するのは、代わり映えのないライフワークみたいなものだ。あとは英検の勉強、それから毎日のようにトレイルランニングの練習、何れにしても一人で完結するものばかりだ。
そんなオレの元に、四月の高校の入学式早々、思いもよらない「変化」がやってきた。
新任教員紹介の場。壇上に立ったのは、長身で髪をひとつに束ねた女性――黒川千尋。肩書きは「数学特別指導担当」。
だが彼女は、にやりと口元を歪め、いきなりマイクを握った。
「えー、四月からこの学校に赴任する黒川千尋です。紹介された通り数学担当だが、普通の授業にはあまり出ない。なぜかって? 私が担当する対象が一人しかいないからだ。――一之石孝和、立て」
名前を呼ばれ、体育館中の視線が一斉に刺さる。立ち上がるしかない。
「彼が私の任務という訳だ。文部科学省と数学オリンピック協会がやっている“地方特別指定学生個別育成プログラム”ってやつでな。東京の進学校に放り込む代わりに、現地で徹底的に鍛える。そのために私が派遣された。これまで東大の基幹数学の研究室に在籍していたから教師としては新人みたいなものかな……まあ、あんまり萎縮せず、普通にやってくれ」
体育館がざわめく。「特別扱い」という言葉が、誰も口にしないまま空気に漂った。おまけに教頭が、このオレの入学をもってスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に認定されたという事実を、まるで自分が獲得した「名誉」のように発表していた。
この瞬間、オレは高校生活のスタートラインで「特別な生徒」というラベルを否応なく貼りつけられた。期待という名の距離感、羨望という名の隔たり。良くも悪くも、普通の人間関係からは外れる。
「すげーな」と冷やかされることもあれば、「近づかない方がいい」という目線も感じる。別に今さらだ。孤立は中学時代から慣れている。
ウチの高校は旧制中学として設立された古い歴史を誇るが、最近は「堕ちた古豪」と揶揄されることも多い。進学実績でも部活動でも県内トップ校にはやや及ばず、学校全体がどこか停滞している。
オレにとっては自宅近くの市電を使って、そのまま通えるという一点が決め手だった。校庭の噴水や大講堂には興味がない。通学の手間がかからないという価値には勝てない。
クラス分けから数日で人間関係は固まる。新入生合宿もあるが、オレは最初から距離を置くつもりでいた。話しかけられれば丁寧に返すが、それ以上は踏み込まない。そつなく接すれば、学校生活は意外と快適だ。
部活動は「数学部」を選んだ。というよりも強要された。三年生が二人だけで、文化祭も二年連続で不参加の開店休業状態。それはむしろオレの気に入った。黒川先生は「活動実績ゼロ、いいじゃないか。余計な雑音もゼロだ」と笑った。オレにとっては一人で静かに問題に向き合える環境さえあればいい。
こうしてオレの高校生活1年目は大過なく過ぎる――はずだった。だが「紙と鉛筆」さえあればいい日々は、あっけなく終わりを告げる。
十月、生徒会選挙。例年信任投票で終わるはずが、この年は波多野結奈が立候補した。目を惹く美しい容姿と、理知的な発言力を兼ね備えた一年生女子。オレにとっては幼馴染だが、小六のあの日以来、意図的に距離を置いてきた相手だ。
結奈の改革方針は「集中と選択」。成果ある部に予算を集中し、低調な部は整理する――必然的に数学部にとっては好ましくない流れとなる。
選挙は結奈の圧勝。そして新生徒会は、部活動の実態調査に乗り出した。数日後、「一人部活」状態の文化系――ボランティア部、文芸部、イラスト部、アニメラノベ研究部、そして数学部――の責任者が呼び出され、全員を「文化系管理団体」として暫定的な「同好会」とする形で統合、翌年3月末までに活動実績が出なければ解散と通告された。
正直、数学部だけならすぐ白旗を揚げてもよかった。だが統合された「同好会」となると、余計な厄介事を背負うことになる。
厄介ごとには慣れている。昔から、自分自身が突き詰めたいもの以外は大抵、厄介ごとの形でやってくる。慣れたくて慣れたわけじゃない。ただ慣れさせられただけだ。そして、それが何かの恩恵をオレもたらしたことは、たったの一度もない。