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第六話 揚羽、昔の夢を見る

『揚羽殿』


 懐かしい声がして、揚羽は目を覚ました。開いた瞼から覗いたのは、どこまでも澄み渡る青空。

 ああ、寝ていたのだ、と揚羽は思った。どうやら城外に散歩に出て、そのままうたた寝をしてしまったらしい。

 目覚めたばかりで重い上体をゆっくりと起こし、揚羽は声のした方を振り返る。するとそこには、穏やかに微笑む許嫁の姿があった。


『秋吉様! お越しになられていたのですね!』

『はい。のの殿から、裏山に散歩に出られたとお聞きしまして』

『そんな、長旅でお疲れの所に更に御足労をおかけしてしまって……』

『いいえ、私が早く揚羽殿に会いたくて、勝手に探しに来てしまったのです。気に病まれる事はありませんよ』


 慌てて駆け寄る揚羽に、秋吉はいつもと同じ、柔らかな微笑みを返す。それを見て揚羽は、不思議と無性に泣きたくなった。

 いつもと変わらぬ声、いつもと変わらぬ笑顔。それはずっと、見慣れたものであるはずなのに。

 それが今の揚羽には、酷く遠く、懐かしいものであるかのように思えてしまうのだ。


『……その髪留め、まだ使って下さっているのですね』


 不意に秋吉が、そんな事を言った。その視線は揚羽の、高く結わえた長い黒髪に注がれている。

 その髪を束ねる、男勝りの揚羽にしては実に娘らしい桃色の髪留めは、今より揚羽がまだ幼い時分に秋吉より贈られたものだった。いくらお転婆と言えど姫君なのだから小物くらいは娘らしくという、秋吉からの気遣いの品だった。

 始めは色が微妙だ何だと不満を述べていた揚羽も、使い続けるうちにすっかり愛着が沸いて、こうして成長してからもそのまま使い続けていた。経年により色も随分と褪せ、鮮やかとは言えなくなっていたが、それでも揚羽は使い慣れたこの髪留めが好きだった。


『はい。折角秋吉様から頂いた物ですから』

『そのような義理立てをせずとも、古くなったらすぐ替えて下さってもよろしかったのに』

『いいえ、私はこれが良いのです』

『そうは言われましても、長く使って頂けている事自体は嬉しいのですが、それでは年頃の娘御としてあまりにも……よし、ではこうしましょう』


 飾り気のない揚羽の主張に悩む素振りを見せていた秋吉だったが、やがて、名案が浮かんだというように手を叩く。揚羽はそれを、目を瞬かせながら見つめていた。


『あと一月後には、揚羽殿は十六の誕生日を迎えられますね』

『えっ? はい』

『その時にあなたに、新しい髪留めを贈ります。受け取って頂けますか?』

『……えっ?』


 揚羽の目が見開かれた。年頃の男が、懇意の女に身に付ける物を贈る。その意味が解らぬほどは、揚羽は子供ではなかった。

 幼い頃の贈り物とは訳が違う。それが意味する事は、その女が己のものであるという所有の証を刻むという事だ。

 目の前の秋吉は、いつもと変わりないように見える。だがその意味を知らぬほど無知な男ではない事も、揚羽は知っている。

 つまり、彼は——揚羽を妻に迎える意思に変わりはない事を、今ここに宣言したという事になる。


(ああ——秋吉様は、こんな私でもいいと仰られているのだ)


 揚羽には、それが嬉しかった。花嫁修行よりも剣の修行に明け暮れる、姫らしくも娘らしくもない自分。

 そんな自分でも秋吉は、今も妻にと言ってくれるのだ。

 揚羽には恋は解らない。秋吉に感じる情も、家族や姉妹同然のののに対するものとさして変わりはない。

 だが、だからこそ揚羽は、秋吉を妻として支えたいと心の底から思うのであった。


『……解りました』


 静かに自分の答えを待つ秋吉に。揚羽は、そう言って微笑んだ。


『楽しみにしています。今度は、何色の髪留めを頂けるのか』

『そうですね、今度は微妙だなどと言われぬように真剣に吟味しませんと』

『む、昔の事は忘れて下さい!』


 からかうように言う秋吉に、思わず焦る揚羽。その空気は、間違いなく穏やかで温かいもので。

 なのに、今、何故か。揚羽は、どうしようもなく泣きたかった。


『それではそろそろ、城に戻りましょうか。義兄上(あにうえ)殿も首を長くしてお待ちですよ』


 そんな揚羽には気付かぬように、秋吉が揚羽に背を向ける。瞬間、その背に、全く別の姿が重なった。


『——叶うなら、あなたの花嫁姿が見たかった』


 そう言ったきり、決して振り返らなかった背中は誰のものだったのか。その答えを揚羽は知っているはずなのに、どうしても思い出す事が出来なくて。

 行かないで、と出かけた声は言葉になる事はなかった。言葉だけではない。揚羽の体総ての自由が、急に効かなくなった。


(また、また止められないのか、私は)


 何故自分がそんな事を思うのか、揚羽には解らない。けれどもこのままでは取り返しが付かなくなるという思いだけが、確固たる確信として在った。

 揚羽の目に映る秋吉の背中が、遠く、小さくなっていく。決して振り返らず、ただ、あの日のように。

 あの日? あの日とは何だ。揚羽には何も解らない。だのに、叫び出したくてたまらない。

 いつかも解らないあの日、揚羽は、きっとこう叫びたかったのだ。


(あなた達を失ったその先に、幸せなどあるはずがない)


 けれども揚羽は、今も、結局何も声に出せず。

 ただ意識だけが、ゆっくりと闇の底へと沈んでいった。

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