第五話 揚羽、倒れる
『……とうでちか。とれは大変でございまちた』
離れまでの道中、黒曜に嫁入りの経緯を聞かせて欲しいとせがまれ。気が進まないながらも話した揚羽に、石英はそう言った。
『何だよそれ! ヒデェじゃねえか、先代様!』
『とういうものではありまてん。先代たまにはきっと、深い事情がおありになったのでち』
「お前達は、先代の龍神にも仕えていたのか?」
『いいえ、あたち達は先代たまがご崩御たれた後に産まれ、ご主人たまの従者になりまちたので。先代たまとの直接の面識はありまてん。でちが職務に忠実な、立派なお方だったと聞き及んでおりまち』
「……」
石英の言葉に、揚羽の表情が曇る。当然だろう。立派だと言われるその神のせいで、自分や、自分の大切な人々は総てを失ったのだから。
『でも、意外だよな。ご主人様がそんな事言い出すなんて』
すると。黒曜が何気ない風に、そんな事を言った。
「意外、とは?」
『んー? だってご主人様はさ、神としての仕事なんてぜーんぜんやる気がなかったんだぜ。オイラ達が、従者になる前からずっと』
「そう……なのか?」
その言葉こそが、揚羽には意外に思えた。金剛とはまだ出会ったばかりだが、先代のした事を真摯に受け止める、責任感の強い神なのだとばかり思っていた。
『そうでちね。あんまりにもやる気がなたつぎて、先代様の頃から仕えてらちた従者の方々はみんな引退ちてちまいまちて。とれで、まだ若いあたち達がお仕えつる事になったのでち』
『神様達の会議もよくすっぽかして、大体この屋敷に引きこもってるよな。それがこんな、神様らしい事するなんて……』
「……」
次から次へと飛び出す事実は、揚羽にとって驚きでしかないもので。それは、自分に手を差し伸べてくれたあの金剛とは、まるで別人のように揚羽には思えた。
『だから、オイラ嬉しいぜ! ご主人様が、姉ちゃんを助けるって決めた事!』
『そうでちね。ご主人たまは今代の龍神とちて、やるべき事をやったと思いまち』
「……そうか……」
盛り上がる二匹を他所に、揚羽の脳裏に疑問が浮かぶ。何故金剛は、自分に手を差し伸べたのだろうと。
思えばあれほど戦乱の炎に焼かれた地上の様子を知らないなど、金剛には確かに人間に無関心なきらいはあった。それでも自分に居場所を作ってくれたのは、責任感の強さからなのだと思っていたが。
(金剛、何故お前は——私に、あんな事を言ったんだ?)
そう考えてみたものの、今日初めて金剛と出会ったばかりの揚羽には、結局納得のいく答えは出せなかった。
辿り着いた離れは確かに本邸と異なり、揚羽の知るそれと遜色のない大きさの建物だった。
長旅でくたびれ切りすっかり擦り切れた草鞋を脱ぎ、玄関に上がる。微かに香る檜の匂いは、揚羽に、城で過ごした幸せだった頃の記憶を思い起こさせた。
『たてと、まずはとの汚れたお召ち物を替えまてんと。お嫁たまに合うものがあれば良いのでちが』
『あるとしたら宝物庫かな?』
『とうでつね、先代様が昔頂いた貢物の中にあるかもちれまてん』
『なら、二人で探した方が早いな!』
『とうでつね。お嫁たま、着替えを用意つるまでの間、どうぞ中でお休み下たい。ここにあるものは総て、自由にちて構いまてんので』
「……解った」
揚羽が頷くと、黒と白の二匹は元来た道を引き返していった。後には揚羽一人が残され、辺りに静寂が訪れる。
「……」
一つ、深い息が、揚羽の口から零れた。ようやく総てに一つの区切りが着いた、そんな風に感じさせる息だった。
「……疲れたな……」
そんな言葉が口から漏れた。「疲れた」と口にするのは、総てを失ったあの日以来、揚羽にとっては初めての事だった。あの日から走って、走って、走り続けて、ようやく辿り着いた足を止められる場所。そこに辿り着いたからこその言葉だった。
「疲れたな……疲れた……」
もう一度口に出す。認識した感情を実感として口に出している、そんな風に見えた。
そして、操り人形の糸が、ぷつりと切れるように。揚羽の体は、その場に崩れ落ちた。
(力、が、入ら、ない)
指一本すらも動かせない虚脱感が、揚羽を襲う。だがそれは決して、人が神域に踏み入った代償などではない。
とうに、限界を超えていたのだ。揚羽の体力も精神も、その総てが。
自分を逃がしてくれた人達、その願いに報いる為にと、それでも気力だけで走り続けた。その気力が、今、尽きた。
(父、上……母上……みんな……秋吉、様……)
急速に遠ざかっていく意識の端に浮かぶのは、懐かしい人々の笑顔。今はもう失われた、揚羽にとっての幸せの象徴。
どれほど焦がれ、欲しても、もう二度と手に入らぬ過去の追憶。
そんな届かぬ夢に対し、意識を手放す瞬間、揚羽が最後に思った事は。
(私は……あなた達の、望む通りに……生きられ、ましたか……?)
その問いかけを最後に。揚羽の意識は、深い闇の底へと沈んでいった。