第二話 揚羽、過去を回想する
揚羽という名のその少女は、小国の姫君として生を受けた。
揚羽の両親は城主としては大らかで、男児に混じって武芸に打ち込む揚羽の事を優しく見守ってくれた。唯一歳の近い兄だけはそんな揚羽に苦言を呈する事が多く、それが原因で兄妹喧嘩に発展する事も少なくなかった。
ののという乳姉妹がいた。男勝りの揚羽とは対照的な大人しい娘であったが、二人は本当の姉妹のように仲が良かった。兄とすら取っ組み合いの喧嘩をするような気の強い揚羽も、彼女を本気で怒らせた時だけは全力で謝った。
隣国の城主の嫡子であった佐内秋吉とは、乳飲み子の頃に許嫁となった。恋愛感情などがある訳ではなかったが関係そのものは良好で、武芸こそからきしだったものの学問に秀で聡明な、もう一人の兄のような存在である秋吉を正室として将来支える事に何の不満もなかった。
姫とは言えど所詮は小国の姫、暮らしはそれほど豊かな訳ではなく、人手のない時には農民に混じって鍬を振るう事も多かった。それでも揚羽は幸せだった。こんな慎ましくも穏やかな暮らしが、ずっと続くのだと思っていた。
だが十六の誕生日を境に、揚羽の運命は急転する。
十六の誕生日を迎えたその日、揚羽は高熱を出し意識を失った。熱は三日三晩下がる事はなく、家族にのの、家臣達は、揚羽の回復を心から祈った。
そうしてようやく、揚羽が目を覚ました時。
揚羽の左目は右目と同じ黒色から、鮮やかな虹色へと変わっていた。
そこから先はあっという間だった。
父親はすぐにこの事を秘匿するべく動いたが、人の口に戸は立てられず。『龍神の花嫁が現れた』という噂は、すぐに近隣諸国へ、そして大陸全土へと広まった。
始めは揚羽を輿入れさせ穏便に手に入れようと、大国から小国まで、あらゆる国々が揚羽へと婚礼を申し入れた。しかし両親はどれだけの貢物を積まれようと、決して首を縦には振らなかった。
揚羽の両親は、心清き人物だった。巨万の富や千年の栄華よりも、ただ娘のささやかな幸せだけを願った。
しかしその娘への愛こそが、彼らを最悪の結末へと導いた。
どれだけ下手に出ても娘を差し出さない両親に業を煮やした諸国は、結託し、揚羽の国へと攻め入った。唯一許嫁である秋吉の国だけは揚羽の国に加勢したが、所詮小国二つきりでは、多くの国々が集まった連合軍の相手になぞなるはずもなかった。
最早国の滅亡と自身の死は避けられぬと悟った父親は、残された力のその総てを、揚羽の自由の為に使うと決めた。揚羽ただ一人はそれに反対したが、父親を始め、生き残った国の者達の決意を変える事は出来なかった。
揚羽の影武者としてののが立てられ、秋吉が揚羽を国外へと落ち延びさせる事で話は纏まった。他の者は揚羽の不在を悟られぬよう、城に籠城し最後まで抵抗を続ける事となった。
皆との今生の別れとなる出立の前夜、揚羽は問うた。何故自分一人の為に、ここまでするのかと。
その問いに、皆はこう答えた。
揚羽がいつかまた幸せを得られる日が来るよう可能性を繋ぐ事こそが、この理不尽へ、自分達が出来る最大の抵抗なのだと。
そんな風に言われてしまっては、もう揚羽には何も言えなかった。翌日の未明に揚羽は秋吉に連れられ城を出立し、慎重に国境へと歩を進めた。
しかし、国境にはどこも厳重な警備が敷かれ。強行突破しかないと、揚羽が腹を括った時。
『——私が見張りの注意を引き付けます。揚羽殿はその隙に国境を』
隣の秋吉が、揚羽にそう言った。揚羽は当然、首を横に振り返した。
『何を仰います、秋吉様。あなたまで私の為の捨て石になると言うのですか』
『私を含めた皆の総意は、あなたを無事に国外へと落ち延びさせる事。それをより確実に叶えるならば、それしかありますまい』
『ですが……!』
『……純粋な力ではあなたを守れぬ情けない男の、最期の意地です。どうか、聞いてはもらえませぬか』
そう告げた、秋吉の真っ直ぐな瞳を見て揚羽は悟った。自分にはもう、未来の夫となるはずだったこの人を止める事は叶わぬのだと。
皆の死を無駄なものにしない為には——己一人、例え誰に何と謗られようとも逃げ続けるしかないのだと。
『……秋吉様の許嫁となれた事は、私にとって、かけがえのない幸せでした』
『私もです。……叶うなら、あなたの花嫁姿が見たかった』
それが二人が交わした、最期の会話となった。秋吉が囮となり生まれた隙を突いて、揚羽は遂に包囲された自国から脱出する事に成功した。
だがそれからも、揚羽に安息が訪れる事はなかった。左目の事が知れると人々は皆態度を変え、揚羽を権力者に差し出そうとするか、あるいは揚羽が原因で生まれた戦への憎しみをぶつけた。
ある旅籠の女将は揚羽を優しく匿うフリをして、役人を包囲させ逃がさぬようにしようと企んだ。
仲良くなった娘は左目の事が知れた途端、お前のせいで父が戦に取られ死んだと激しく罵り、揚羽を痛め付けた。
親切だった一家の老いた家長は、家族を養う為に城主に売られてくれと畳に額を擦り付け、揚羽に懇願した。
裏切りが一つ増える度、揚羽の心は少しずつすり減った。けれどもそんな彼ら彼女らを恨む事など出来ない程の、どうしても捨てられない優しさが揚羽の中には在り続けた。
逃亡に逃亡を重ねた果て、揚羽は遂に決意した。己の、大切な人達の、そして出会ってきた人々総ての幸福を根こそぎ奪い去った元凶、己を見初めた張本人たる龍神を、自らの手で討ち果たす事を。
そこで揚羽は、死装束として白無垢を纏う事を選んだ。あの日秋吉と交わした最期の会話、最期の願い。それを叶える為であった。
白無垢は呉服屋に「龍神に輿入れする為の花嫁衣装を秘密裏に仕立てたい」と左目を見せて頼めばすぐ用意された。そのまま金も払わず持ち逃げしてしまった為揚羽の胸は痛んだが、何とかその痛みを心の奥底に沈めた。
そうして手に入れた白無垢を身に纏い、険しい山を登り——揚羽は、龍の元へとやってきたのである。