第一話 揚羽、龍神と対峙する
「貴様の命、貰い受ける。龍神よ」
薄汚れた白無垢に身を包んだ、その少女は。刀を抜き放ち、目の前の巨大な銀色の龍にそう言い放った。
少女の左の瞳は、鮮やかな虹の色を宿していた。
——伝承に曰く。
世を統べる神の一柱、最南の地の山奥に棲まう龍神は千年に一度、人の嫁を取るという。
龍神の花嫁に選ばれた乙女は天より、虹色の瞳を新たに授かる。誰が龍神の花嫁となるかは、その時が来るまで誰にも分からない。
そして龍神の花嫁を探し出し、龍神へと奉じた国は——。
「『龍神に花嫁を奉じた国は、次の千年まで龍神に守護され、繁栄を約束される』……か。……下らない。実に下らない」
龍を見据え、少女が吐き捨てる。その顔は、侮蔑や嫌悪の感情を隠そうともしない。
「貴様は考えた事があるのか。妻に選んだ女にも、大切な家族や友人がいる事を。将来を誓い合った男が、別にいたかもしれない事を。そういう選ばれた側の都合を、一度でも、考えた事はあるのかっ!」
少女が吼えた。憤怒、憎悪、悲哀。その虹色のように様々な感情の入り混じった左の瞳は、哀れな程に美しかった。
それを見ても、聞いても、龍神は動きもしなければ言葉も発しない。静かに、ただ静かに、その金色の瞳で少女を見つめている。
「下界が今、どうなっているか貴様は知っているのか」
それでも怯む事なく、少女は問うた。
「戦だ。終わる事のない戦だ。どこかの国によって私が貴様に奉じられぬ限り、果てる事なき戦だけが今の下界の総てだ」
刀を握る少女の手に、力が籠る。微かに震えるそれは、抑えきれぬ怒りを表していた。
「これで満足か。貴様の守護を得る為だけに、血で血を洗う戦を繰り広げる民を見て。この地獄が、貴様の望みなのかと聞いているっ!」
刀の切先が、遂に龍へと向いた。虹色の瞳ももう一つの黒い瞳も燃え上がる憤怒を表すように血走り、赤みを増している。
それでも、なお、龍は静寂を保ったままだ。
「貴様が! 貴様さえいなければ、私は総てを失わずに済んだ! 父も、母も、兄も、友人も、許嫁も! 総て、私を巡る戦に巻き込まれ死んだ! 貴様さえ、貴様さえいなければっ……!」
そう血を吐くように叫んだ少女の頬を、透明な雫が流れる。虹と黒と朱に染まった瞳から流れたとは思えない、どこまでも澄んだ無色の雫だ。それは頬を落ち、顎を落ち、最後に乾いた地面に落ちて、小さな染みを作る。
「だから私は、自らこの衣装を纏ってここに来た! 貴様の命か私の命、それを以てこの乱世を終わらせる為にっ!」
少女の足が地を蹴った。自らの涙の跡を踏み越えて、龍との距離を一気に詰める。
「はああああっ!!」
いまだ微動だにせぬ龍に肉薄し、その腹目掛けて少女が刀を逆袈裟に振り抜く。間違いなく深く届く距離。少女の経験が、そう告げていた。
しかし。
「っ!?」
少女の手に伝わったのは肉を斬り裂く感触ではなく、硬い鋼を叩き付けた感触。全力の勢いはそのまま反射し少女の細腕を襲い、華奢な体ごと大きくよろめかせる。
龍は相変わらず動いていない、何もしていない。だというのに、体が弾いたのではない、刃が届かなかった。
「……なっ……!」
少女の頭の角隠しが、拍子にぱさりと落ちた。中から桃色の髪留めで結われた長い黒髪が零れ、ふわりと宙を舞う。
『……ハァ。全く、荒事は好かんのだが』
「……っ!?」
不意に、少女の脳内に若い男の声が響く。この場にいるのは少女と龍だけ、これが少女の声でないのならば。
「この声は……貴様か、龍神……!」
『ちいっと大人しくしてもらうぜ、じゃじゃ馬娘』
その言葉と同時に、龍の金の眼が光を帯びる。直後、まるで何かに押さえつけられるかのように、少女の体が深く膝を突いた。
「体、が……重い……!」
『さて……聞きたい事は色々あるが、とりあえず……』
「くっ……!」
龍が首を少し下げ、何とか体を動かそうともがく少女を見下ろす。そして。
『その……さっきからお前が言ってる龍神の花嫁だ何だってのは、一体何の話だ?』
「……は?」
その、心底困惑したように告げられた言葉に。少女は口をぽかんと開け、怪訝な声を上げた。
「……つまり貴様は、つい最近龍神の座を継いだばかりだと」
『そうだ。お前らの時間で言う、百年くらい前になるか。親父が寿命でぽっくり逝っちまって、息子の俺が自動的にな』
「そして貴様は、父親からこの件について何も聞いていないと」
『全く。最近やけに下界が騒がしいと思っちゃいたが、その理由がその、龍神の花嫁?って事でいいのか?』
「……それが嘘でないという、証拠は」
『嘘を吐いて懐柔するなんて回りくどい事をしなくてもお前を殺したきゃもう殺してるし、嫁に取りたきゃ力ずくでやってる』
「……」
少女の声が止まる。その様子は龍の言葉をゆっくり、ゆっくり頭に染み渡らせていくようであった。
「……なら」
やがて色を失った唇から、言葉が零れた。そこには先程までのような、鬼気迫る覇気はない。
「なら、私は……家族達は、ののは、秋吉様は……何の、何の意味もなく、総てを、命を、奪われたと言うのか……?」
少女の手から刀が滑り落ち、からんと音を立てて地面に転がった。虹と黒の双眸を、憤怒の代わりに虚無が支配し始める。
『……あー……その……』
少女のその様子に、龍が気まずそうに声をかける。声色以外に感情を読み取る術などは存在しないが、それはどこか、少女を優しく気遣うような声であった。
『……聞かせてくれねえか。お前の身に、一体何があったのか』
「……言ったところで、聞いたところで今更何になる」
『確かに何にもならねえな。だが俺は先代の息子として、何より今代の龍神として、それを知る義務があると思った』
「……」
その言葉に、虚ろな虹が僅かに揺らぐ。少女はしばし無言のままだったが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「私の名は揚羽。かつて、私は、小さな国の姫だった——」