第2話 「今がその時」
堕神の肉体は黒い瘴気に覆われながら膨張を続け、壁をも押し広げるほど巨大化していく。
その姿は既に、先ほどの蜘蛛のような形状を超え、禍々しく抗い難い、邪なる神そのものだった。
亜蓮は堕神が再生する様子に目を光らせ、再び剣を構えた――
「待って……待ってっ!!」
空間を貫くようにモモが叫んだ。気づいた亜蓮が肩越しにモモを見やる。
「私も戦う! 私も、貴方達みたいに戦わせて!!」
亜蓮は足を止め、半身だけ振り返った。冷たい瞳が、モモの幼さと覚悟を見定めるかのように見つめる。少しの沈黙の後、彼は刀を下ろした。
「だめだ」
当然のように返ってきた短い否定の言葉に、モモの胸がずきりと音を立てた。奥歯を噛み、ぎゅっと胸を握りしめる。
「私は……! 私、は……!」
声が詰まる。当たり前だ。ただの人質が何を馬鹿なことを言っているんだと思われただろう。
荒くなる呼吸に言葉が押しつぶされる。亜蓮の背中越しに見える荒れ果てた戦場と、堕神の禍々しい姿が胸を突き刺した。
でも、諦めきれない。ここで折れたくない。胸の奥で、これがお前の進む道だと、彼と共に行けと、誰かが叫んでいる。
激しく上下する胸を抑えながら、モモは必死に言葉を探す。
怖い。帰る場所もない。でもそれ以上に、あの部屋にはもう、戻りたくない。でも、戻りたくないだけじゃだめだ。
私も、本当は、自分の力で前に進めるようになりたい。私も、誰かを助けられる人になりたい。誰かを守れる人になりたい。
この人達みたいに……!
――震えを振り切り、モモがキッと亜蓮を見上げた。
「私は、自分の未来は自分で選び取れる人間になりたい! 強くなりたい!! 誰かを助けられるくらい、強くなりたい!」
その時、冷徹だった亜蓮の目が僅かに動揺した。瞳の奥が一瞬、辛い痛みを伴う過去を映す。モモはそれに気づかず、俯きながら震える。
「もう、何もできないままの自分は嫌なんです!」
心からの悲鳴のような声で告白するモモに、亜蓮の冷徹な瞳の奥がわずかな迷いと痛みで揺らぐ。
ほんの一瞬、亜蓮は祈るようにぐっと目を閉じた。ゆっくりと瞼を開け、再び瞳に冷静さを取り戻すと、静かにモモに向き直る。
「……僕達の目的は、逢魔を倒すことだ」
「逢、魔……?」
「一年前、この土地に大厄災を引き起こし、殺戮と破壊の限りを尽くした存在。全ての堕神を生み出した、魔の根源。今も、この千年京の地下に眠っている」
「それが、また目を覚ますってこと?」
「そう。逢魔の復活を阻止し、今度こそ奴を祓う。それが僕達の目的」
そう語る間も、堕神は亜蓮の背後で膨張し続けている。まるで、刻一刻と復活の時を刻む巨大な存在の暗示のように。
「今千年京は、結界の力で外界と隔絶されているけれど、次に逢魔が復活すれば……もう止められない。世界中が、ここみたいな地獄になる。それを止めるために、戦ってる」
亜蓮は一呼吸置き、モモを真っ直ぐに見つめる。
「ここまで話しても、僕達についてくる覚悟が、ある? ……命を、賭ける覚悟がある?」
モモは目を伏せ、一瞬だけ沈黙した。
「……要するに、ここで戦わないともっと大勢の人が死ぬってことですよね」
今度はモモが亜蓮を見据える番だった。その瞳には、純粋な怒りと願いが燃え始めてきた。
亜蓮は答えない。ただモモを試すように頷く。
モモはきつく拳を握りしめ、空気を裂くように叫んだ。
「やります! やらせてください!!」
モモの瞳は燃えるように輝き、純粋な正義が溢れ出している。
周囲の空気が変わる。亜蓮が目を見開いた。彼女の存在が、暗い景色に一筋の光を差し込むように映る。
その時、亜蓮の中であり得ないことが起こった。
自分を見据えるモモの姿が――あの強気な少女の面影と重なった。
「貴方達みたいな人がいるって知ったのに、助けられたまま、ただ黙って見てるだけなんて嫌だ!! 私も戦いたい!! 私を、仲間に入れて!!」
亜蓮はモモをじっと見つめ、沈黙する。その瞳には躊躇いと、遠い過去の記憶が映り込んでいた。しかし、何かを断ち切るように目を閉じる。
そして――
「…………わかった」
「亜蓮様!?」
花緒が驚きの声を上げる。
「亜蓮様、本気ですか!? 彼女は一般人――」
「花緒」
穏やかに諌める声に、花緒は喉まで出かけた言葉を引っ込めた。
亜蓮が静かにモモに歩み寄る。
「君の名前は?」
「モモです。渡良世モモ」
亜蓮は再び頷くと、両手をゆっくりと広げた。その掌に、黄金色の華のような炎が静かに現れる。
「これが、戦いたいという君の願いを叶える力だ」
燃やす者の心を照らし、その奥底にある"魂”を暴き出す神火。その眩い光に亜蓮は目を細め、わずかに息を整える。
「この炎は、人を思い遣り人の為に使うことで初めて真価を発揮する。呪いと怨嗟の輪廻を断ち切る唯一の力」
炎が揺らぎながら膨らんでいく。その美しさと温かさに、モモは自然と引き寄せられていく。
「――望むなら、受け取れ」
「はい!!」
モモの目に強い意志の火が灯る。自ら未来を掴み取るように――華炎を掴んだ。




