第9話 「再起」
月が見える。
紫煙が淡い光に細く重なる。
開け放した窓の下に腰を落としたまま、御之は熱の抜け切らない体で息を吐いた。
視線を暗い室内に滑らせる。パイプベッドの上には、小柄な体が毛布にくるまって猫みたいになっていた。
金色の錫杖を、まるで誰かの亡骸ようにしっかりと抱いて。
涙の跡は血と混ざったまま頬に乾き、拭われることもなく残っている。
泥の底に沈むみたいに、もうずっと眠り続けている。
紫煙が揺れる。
――猫を拾った。
俺が最初に見つけた。
こいつの強さを、可能性を、
世界で初めて、俺がこじ開けた。
規則正しく上下する肩を見て、御之は自嘲気味に笑った。
顔を上げる。
霧のような結界に滲み、輪郭を持たない朧月が浮かんでいる。
ゆるい風が窓枠を抜け、部屋の中に煙の匂いが流れていく。
「……けほっ、けほ」
咳き込む声。目をやると、毛布の隙間から赤い目が恨めしそうにこちらを睨んでいた。
「……臭い。煙草やめろ」
「悪い悪い。これで最後や」
手元の火を、携帯灰皿の奥に捻じ消す。それを見届けて満足したのか、そいつは――亜蓮は何も言わずにまたベッドに沈んだ。
思わず少し吹き出す。残っていた数本ごと、煙草の箱をゴミ箱に投げ入れた。
――忙しくなりそうだ。
まずは、この泥まみれの猫をどうにかするところからだ。服を用意して、風呂に突っ込んで、何か食べさせて……。面倒だが、部屋も片付けないと。二人で住むには、ここは散らかりすぎている。
――ああ、また悪くない生活だ。
そう思った時点で、もう手遅れだ。
……
……なあ。
お前がいっそ、ただの独りぼっちの捨て猫だったら少しは楽だったのに。
そんなわけ、ないか。
お前もすぐ、どこかへ行ってしまうんだろう。
「……わかってんのになぁ」
一人じっと目を閉じ、再び見上げた月は、
少し、傾いていた。
* * *
――何が、起こった。
焼けつく熱で目が刺すように痛む。折れた肋骨は息をする度鋭く軋んだ。
「……っ!」
御之は歯を食いしばり、魔力を無理やり眼に集めた。
瞳孔が針のように収束し、世界の輪郭が歪む。熱が色を持ち、命の位置を暴く異形の視界が開ける。
あの狐耳がどこかに潜んでいるなら見逃すはずがない。
だが――
……いない。
どこにもいない。
耳鳴りが強くなる。こめかみに滲む汗が冷たい。
あれはなんだ? 何故モモを攫った。
あんな異質な存在を、何故今まで感知できなかった?
思考が散り散りなって上手く繋がらない。ただ、第三者の介入だけは絶対に避けるべきだった。だから花緒に結界を張らせ、外部からの干渉を完全に遮断したのに。あれは、紙でも裂くようにあっさりと結界を破ってきた。
胸の奥が詰まる。
歪な視界が解けた瞬間、視線を感じた。
首をやると、地面にへたり込んだまま花緒がこちらを睨んでいた。唇を噛みしめ、何かを堪えるような表情。……左腕が、不自然に折れ曲がっている。
――ああ。
理解した瞬間、冷たい絶望感が広がる。
(花ちゃん……わかってて受けたな……)
もし花緒がモモとの格闘で負傷したなら、儀式は――その時点で破綻している。
「……はぁ、くそっ」
吐き捨てるような息とともに、体が仰向けに倒れた。背中が地面の熱をまともに受け止める。痛みで思考を繋ぎ止めながら、それでも何とか立て直そうとするが、
――だめだ。全てが想定を超えている……。
その時、衣擦れの音がした。
すぐ傍に、片膝をつく気配。
御之は腕で顔を覆ったまま、わずかに隙間を作って見上げた。
亜蓮が、そこにいた。
妙に真面目くさった顔で。整った顔立ちに影を落とし、憂うような赤い瞳でこちらを見下ろしている。
その視線をまともに受けた瞬間、胸の奥がじわっと滲んだ。ただの安堵じゃない。もっと、情けなくて、消えてなくなりたいような感情。
御之が茶化すように笑った。
「……アホやな。こっちやないやろ……」
「モモは後で必ず見つける。でも、今はお前だ」
少しも迷わず、亜蓮は言い切った。
その瞬間、御之の目に熱いものが込み上げそうになる。
――優先された。
同情でもない。気遣いでもない。
ただ、今この瞬間、亜蓮が自分を選んだ。
それだけで、内側のどこかが崩れそうになる。
誤魔化すように破顔する。
「ほんま、お人好しやな……」
「もういい。喋りすぎなんだ……お前は」
ぶっきらぼうに返されて、御之は吹き出しそうになった。痛みで筋肉が引き攣るのも構わず、口元だけで笑う。
亜蓮はふっと微笑んでから、御之の手の中にサングラスとガラケーを押し戻した。噛み締めるように、御之がそれを握りしめる。
すっと唇を引き結び、亜蓮は顔を上げた。
「千助、花緒を頼む」
「あ、当たり前だろ!」
我に返った千助が、慌てて花緒のもとへ駆け寄った。膝をついたまま治癒の構えに入り、震える手で光を灯す。
「な、なんなんすか……!? 何が起こったんすかあれ!? てかおい、この糞グラサン! どういうつもりだよ!」
「……演技だったんだよ」
「は!?」
千助が弾かれたように振り返る。視線の先で、亜蓮は御之の胸部に手をかざし、治癒の光を流し込んでいる。
「全部儀式だった。鬼を仲間に引き入れるための」
「えっ……? あ――?」
ハッ!!と千助の目が見開かれる。
「そうか! 『役小角』的なやつをやろうとしたのか!!」
「何それ知らない……」
「急にマニアックなん出すなや……」
「ここは『牛若丸』か『泣いた赤鬼』でしょう……」
「いやお前らが知らねぇのはマズイだろ!! 退魔師やってんだろレジェンドだぞ!?」
顔を歪めながらつっこむ面々に、千助が悲鳴を上げる。
ちなみに、『役小角』は二体の鬼を従えたという伝説の存在。千助はぶつぶつと整理しながら、拳でこめかみを叩く。
「つまり……罪を犯した鬼を仲間に引き入れるには、一度裁いて、それから契約……ってことっすよね……? でも、なんでそれがわかったんすか?」
亜蓮はすぐには答えない。
無言で、片腕で顔を隠す御之を一瞥する。
「……前に、同じことを僕もやった」
「同じこと……って、その鬼は……いや待て。さっき『泣いた赤鬼』って言いましたよね?」
千助はハッ!と片手を手に当てる。
「えっ、じゃあ何すか!? こいつ、“俺さえ悪者になれば〜”みたいなことやったってことっすか!? いや柄じゃな!! キャーーはっっず!!」
「うっさいわ!! 可哀想やろがモモちゃん普通に!!」
御之が赤くなって反射的に拳を振り上げる。が、力が入らず途中で止まり、そのまま額に押し当てた。
「はぁ……俺はどうにでもなんねん……! ソロ経験あるし……! でもモモちゃんは女の子やし一人にしたら寂しいやん……!」
「いや……だったら最初からそう言えよ……。なんでここまで無茶苦茶できんだよ……めんどくせぇのかよ……」
「素直に言って通る話ちゃうやろ!!」
「現代人は! 話し合いが! 基本なの!!」
「喧嘩やめて……」
「ほんと……ムカつきますよね……後で数発……殴らせろ……五、六発……!!」
「花緒さんは喋らないでっ!」
「息絶え絶えで乗らんでええねん!」
言い合いは容赦ない。それでも、誰一人手は止めていなかった。
千助は悪態を吐きながらも術式を崩さず、花緒は歯を食いしばって意識を繋ぎ止め、御之は荒い息のまま回復に身を任せる。
噛み合っていないはずの喧騒とは裏腹に、動きだけはぴたりと揃っている。
亜蓮がぐっと目を閉じる。
(――誰も、誰も責めていない……)
怒りも、戸惑いも、裏切られた感情も、一度ぶつけ合うことができた。
だから今、誰も迷っていない。
互いの体の中に同じ火が燃え、一点に収束していくのを感じる。
一刻も早く傷を癒やす。
モモを取り返す。
……いや、違う。
――僕達には、あの子が必要だ。
だが、
「――っ」
花緒がびくりと体を引き攣らせた。
「……! 亜蓮さん、こっちダメだ」
青ざめた千助の声に、亜蓮がハッと顔を上げる。
御之が倒れたまま亜蓮を仰いだ。
「亜蓮、行ったれ」
「まだ塞がり切ってない」
「俺はもう平気や。……おおきにな」
御之が満足そうに笑った。喉の奥に引っかかっていた何かが、すとんと落ちたみたいに自然と出た言葉だった。
無理のない表情を見て、亜蓮は短く頷く。
すぐに花緒の元へ駆け寄る。片膝をついて、青紫に腫れ上がった左腕を見た。亜蓮の表情が曇る。
「……酷いな」
「モモちゃん怪力っすからね……。これ神経やられてないっすか? 複雑すぎて俺じゃどうにもならないっす……」
黒いワイヤーが花緒の腕を固定するようにシュッと巻きついた。
亜蓮が振り返ると、御之が花緒に人差し指を向けている。
「色々ごめんな花ちゃん」
「うるさいっ! 謝るな!!」
気絶しそうな痛みと悪寒にうなされながらも、花緒は掠れた声で叫んだ。
謝っている暇があったら次を考えろ、そう目だけで背中を蹴飛ばしてくる。
御之は苦笑して、冷えてきた頭を静かに回し始めた。
どうする。モモを探すには、メンバー全員とクロチを使った人海戦術になる。だが、今は負傷した花緒の回復が最優先だ。でも暁月には、ここまでの怪我を治せる治癒術師がいない。その為の使える人脈は――。
「……間に合った」
その時、ザッ!と白い影が落ちた。
風が遅れて追いつく。場の空気が一瞬だけ張り詰めた。
全員の視線が一斉に彼へ向く。
白い隊服。裾に汚れを引きずり、呼吸は浅く速い。
戦闘直後、休みなくここまで全力で走ってきたのが一目でわかった。
瑪瑙色の鋭い目が、素早く場の状況を確認する。
負傷した花緒。治癒に当たる千助。地に倒れた御之。そして――亜蓮。
状況を理解し、一瞬だけ目つきが厳しくなる。
だが、その目の色に敵意はない。
「君は……」
亜蓮が低く呟く。記憶はすぐに結びついた。
たった一度、戦場を共にしただけの国家退魔師。
そして偶然、力を分けることになった青年。
――白波 柊馬は、顎に伝った汗を手の甲でぐいっと拭った。
荒れていた呼吸が、すっと整う。
職務的な態度で、礼儀正しく頭を下げた。
「お久しぶりです。……華上 亜蓮さん」
* * *
赤い行燈が暗い天井に浮いている。脂ぎった朱色の柱と格子が、ぬらりと赤い光を返していた。
モモは固い椅子に座らされていた。手も足も自由のまま。
向かいで、狐耳――リンが機嫌良く盃を傾ける。
「鬼と席を囲むのは初めてだがね。でも、好みくらいは把握しているつもりだよ」
モモは黙って睨み返す。逃げ場はない。
この場所の意図も、目の前の光景も読めない。
「さあ!」
リンがバッと両手を広げた。
テーブルを埋め尽くす皿、皿、皿。肉。肉。肉。
照りつく角煮、滴る肉汁、艶やかな鳥の丸焼き。香ばしい肉と油の匂いが充満している。
「遠慮はいらない、どんどん食べたまえ!」
モモの喉の奥がごくりと鳴った。
――美味しそう。
……ハッ!
違う違う違う!!
慌てて顔を引き締め、モモはキッとリンを睨みつけた。




