第5話 「あなたのいない世界の、始まり」
雪乃は泣きじゃくる亜蓮を引きずり、まだ被害を受けていない屋敷の奥の子供部屋に逃げ込んだ。
狭く、暗い部屋の中、外の喧騒が嘘のように遠く感じる。ここだけ別の世界にいるみたいに。
「母様……っ」
雪乃は涙を堪えながら、震える亜蓮を抱きしめた。
龍脈が使えない。すぐに、何か別の手を考えないと。このままじゃ屋敷だけでない、この町の人々みんなが危ない。
その時、亜蓮の小さな手が雪乃の肩の怪我に触れた。
「あれん……?」
雪乃は最初、亜蓮が何をしたいのかわからなかった。
亜蓮は嗚咽をこらえながら、取り出した小さなハンカチを、雪乃の肩に巻きつけた。手が震え、結び目は不格好になる。巻かれたハンカチが赤く染まるのを見ると、亜蓮は悔しそうに声を殺して泣いた。
かわるがわる、嗚咽を堪えながら、手の甲で溢れる涙を拭う。ただ怯え、打ちのめされて、恐怖に押しつぶされそうなだけの、小さな弟。
――この子に戦う力はない。
そう思い出した瞬間、雪乃の中で何かが崩れた。剥き出しになった心に、ひとつだけ浮かび上がったのは――絶望だった。
今これから、私の命も、この子の命も、無惨に、無意味に終わるかもしれない。
「……ぁ」
自分でも驚くほど、震える声が出た。
思わず、雪乃は力いっぱい亜蓮を抱きしめる。励ますためじゃない。自分が壊れてしまわないためだった。
亜蓮が驚いて目を丸くする気配がする。
――温かい。小さな鼓動と息遣いが伝わってくる。まだこの子が生きている。その事実が、こんなにも残酷で、怖い。
「お姉ちゃん……。今が、その時なんだよね……」
その言葉に、雪乃はハッと息を呑んだ。
「これが、僕達が、生きてきた意味なんだよね……? 今……僕達が、やらなきゃいけないことなんだよね……!?」
腕の中の亜蓮が、震えたまま顔を上げる。その目に映る、自分と同じ、絶望の色。
「二人でなら、大丈夫だよね……!?」
亜蓮の目から、涙が溢れる。自分よりずっとずっと無力なはずの亜蓮が、今使命感だけで立ち上がろうとしている。
その姿が、決定打だった。雪乃の中で、全ての思考が掻き消える。
――無理だ。
――できない。
沈黙する姉に、亜蓮が不安の色を濃くする。
「お姉ちゃ――?」
――バンッ!!
全ては一瞬だった。亜蓮が言い終えぬ間に、雪乃の手が何かを亜蓮の胸元に押し付け、そのまま亜蓮を和箪笥の中に叩き込んだ。
亜蓮の手の中に収まっていたのは――あの、錫杖。驚きで固まる亜蓮をよそに、雪乃は手早く箪笥の扉を閉める。手近にあった刀剣で外側から栓をした。
「お姉ちゃんっ!! なんで!? なんでッッ!!?」
小さな拳が内側から扉を打ち鳴らす。呆然とする雪乃の耳に、亜蓮の悲鳴が反響する。
(終わった。何もかも)
雪乃の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
覚悟とか、決意とか。これまで積み重ねてきた経験や、生きてきた全て。強くあろうとした自分自身が、今何もかも意味をなさなくなった。
「おかしいな……私……もっと強かったと、思ったのに……」
呟いて、空っぽの両掌を広げる。
…………
――いや、違う。
これでいいんだ。
雪乃は箪笥の扉に手を当てた。
私の力と思いがこの子の命を繋ぐ。それだけが、今のこの絶望的な状況で、私という人間が生きた事実を繋いでくれる。
この子は――私が生き残らせる。
「なんだ私……意外と愛情とかあるんじゃん……」
雪乃は自虐するように力無く笑った。意地悪ばかりする嫌な姉だったが、やっと姉らしいことをできそうだ。そっと額を扉に当て、祈るように囁く。
――ありがとう。
最後の最後に納得できた。
「亜蓮ありがとう。大好きだよ。 大丈夫……私達の思いが、アンタを守るから」
扉の向こうで、雪乃の瞳は信念に燃え輝いていた。肩口から溢れる血を2本指に含ませ、泣き出しそうな笑顔を浮かべながら文字を刻む。
「生きて。あんたの"その時"のために」
雪乃は扉に差した刀剣の鞘から刀を一気に抜き放つと、亜蓮の叫び声を背に走り出した。
外には無数の化物が蠢いている。夜の闇に包まれたその中で、雪乃が構えた日本刀の刀身が眩い銀色に輝く。
不思議だ。これから死ぬのに、実感がない。恐怖も、使命感もない。ただ、全てをやりきった充足感だけが胸を満たしている。私の意思は、あの子が継いでくれるから。
「なんかすごく――いい気分だ」
雪乃の金色の瞳が笑った。
襲いかかる無数の化け物。だが、彼女の眼差しは一瞬たりとも揺るがなかった。
焼けるような空の下で、刃が銀色の閃光を放つ。雪乃の叫びが空気を震わせ、夜闇を切り裂いていった。
* * *
――夜明け。
火は消え、死の静寂に包まれる屋敷に、煤まみれの一人の女が足を踏み入れた。
花緒だ。木材や生き物の焼けた匂いが漂う中、足早に屋敷を駆け回る。
(お願い……! どうか無事でいて……!)
焦る気持ちを必死に堪え、屋敷中を走る、その時だった。祠池の淵に伏せる影に気づき、息を切らして駆け寄る。――あったのは、芽覚の遺体だった。
「芽覚様……!」
花緒の声が震える。焦げた空気の中、彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「……っ、はぁ」
目元を拭い、涙を堪えて再び立ち上がる。
絶望するな。諦めるな。震え、強張る脚を必死に奮い立たせる。
さらに屋敷の奥へと進み、異様な静けさが漂う空間にたどり着いた。亜蓮の子供部屋だ。
「……」
音を立てないように扉を開け、数歩進み出る。
――誰もいない。だが、無人の空間に、彼女はかすかな気配を感じていた。
花緒の視線が、部屋の隅の刀掛けで止まる。
(刀剣がない……)
そして、惹きつけられるように目に入った和箪笥には――殴り書きのような血文字。
『あれんを たのんだ』
取手には、外側から鞘で栓がしてあった。
(まさか――!)
「亜蓮様っ!!」
震える手で扉を開け放つ。だが、そこには何もなかった。ただ、冷たい空気と異質な闇だけが、彼女の目の前に広がっていた。
だだ一つ……小さな子供たった一人だけが座り込める、小さな空間を残して。
「亜蓮、様……」
最後の希望が消え、花緒の手が呆然と滑り落ちた。
* * *
暗闇の中、亜蓮は冷たい水に沈んでいく。
凍えるような闇が身体を包んでいた。心臓すら止まりそうなのは、この闇の冷たさのせいか、それとも、生きることへの絶望なのか。
閉じた瞼の裏に浮かぶ姉の姿。手の中に残された希望。
――この世界では強くたって、意味がない。
水の底へと沈む少年の涙が、光の粒となって宙に浮かぶ。
――でも……力がなければ……何も守れない。
亜蓮が目を閉じる。両手から力が抜け、冷たい暗闇に――沈んでいった。
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次話からはガラッとテンション爆上げて退魔アクションものになります!
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