第2話 「屍鬼のカルテ1」
職員用通路を抜け、花緒は受付裏のカルテ棚と向かった。
御之は知らなかっただろうが、この病院は5年前まで電子カルテに移行しきれず紙のカルテを併用していた。受付裏の棚には、今も紙のカルテがぎっしり残っている。
逢魔時の混乱で、棚の周囲の床はカルテが散乱していた。それらを踏まないように足を進め、スマホのライトだけを頼りに、花緒は頭にあった人物の名前を探した。
(あった……)
見つけた一冊をそっと引き抜く。
――「華上 春蘭」
高貴で華やかな名前。聞き馴染みのない名前。
……当然だ。この男のことを、花緒は一度もその名で呼んだことがないのだから。
カルテの最終ページはこう締めくくられていた。
――2003年 9歳
「慈雨月 遙霞」に改名。
養子縁組により県外転居。
花緒の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
びっしり記された既往歴。乳児期から重度の喘息発作を繰り返し、酸素投与の為の入退院を重ねている。体が弱かったとは聞いていた。高校生の頃には気胸で手術を受けたとも。
花緒の婚約者――慈雨月 遙霞は、秘術師の家華上家の次男として産まれた。
しかし周囲の期待とは裏腹に術師としての才覚に恵まれず、凡庸を補う修行すら体が許してくれなかった。
非凡な兄――亜蓮の父とは、大人になってからも比較の的になりがちだった。本来ならば二人で華上を支えていくはずが、そうならなかったことを惜しむ声も。
自分の体も、生き方も思うようにいかない彼が、たった9歳で家を飛び出した思いはどんなものだったろう。
投げやりだっただろうか。
藁にもすがる思いだっただろうか。
後継に恵まれなかった慈雨月家からは大切に扱われたらしいが、きっと孤独だったに違いない。
結果的に彼は大成した。今では巨大なグループ会社を取りまとめる頂点だ。それでも、血筋に恵まれながら早々に華上に見切りをつけた彼を快く思わない術師は大勢いた。
兄への当てつけ。
財政面から華上を牛耳ろうとしている狡猾な男。
名前も家族も切り捨て、今度は他人の首を切っている血の通わない人間――。
(……まあ……確かにかなり性格歪んでるとは思うけど……)
慈雨月の無邪気な笑顔を思い出して、呆れ半分花緒の口角が引き攣る。
いざ冷静になってみると、彼の行動はあんまりすぎる。
華上の血筋を残すという使命を押し出した強引な婚約。
甥っ子である亜蓮の生活の援助を条件にした、婚約関係の継続。
果ては、亜蓮の気持ち――花緒への片想いを知ってか知らずか(いや、十中八九気づいてた)花緒と亜蓮を親子にしようという養子縁組計画まで……。
……悪魔だ。
その他、婚約者の困った言動の数々を思い出して、花緒は小さくため息をついた。
周りの評価も、言葉こそ棘があるがそれも慈雨月の一面であると思う。ただ、それだけが彼でないことを私は知ってしまった。
……健気な人なのだ。孤独で、優しくて、強い人なのだ。
彼があの優しい大人の笑顔を振りまけるようになるまで、一体どれだけの歳月がかかったのだろう。
これから先、どれだけ背筋を伸ばして生きようとも、彼を後ろ指差す人は絶えないし、孤独は続く。それが彼の選んだ生き方で、彼の業なのだ。
――花緒はカルテを閉じ、胸に強く押し当てた。閉じた瞼の裏に熱い涙が滲む。
彼の痛みが、その生き様が愛おしい。
そんな彼が、唯一手離したくない存在として自分を選んでくれた。それが嬉しくて苦しくて、いつも胸が張り裂けそうになる。
慈雨月が「人の上に立つ者」としての業を負うように、花緒もまた、「亜蓮の従者」としての業の中でしか生きられないのに。
(……ただ、幸せになって欲しいだけなのに)
涙を堪えて、花緒は息を整える。慈雨月のカルテを胸に抱えたまま、辺りに視線を巡らせる。
……亜蓮ではなく慈雨月を選んだと、堂々と言えないことが辛い。
亜蓮の従者として在ることは、花緒の生き方に近い。慈雨月もその事を分かっているから、花緒を自由にしてくれている。
だが、亜蓮が花緒に求めているのは主従以上の関係だった。そして慈雨月もきっと、そのことに気づいている。
慈雨月の「婚約者」としての自分。
亜蓮の「従者」としての自分。
そして、退魔組織・暁月の「結界術師」としての自分――。
――現状維持。
残酷だが、戦い続ける為にはこうするしかなかった。「永祭結界」との戦いで、精神のバランスが命取りになると花緒は身をもって痛感した。
状況を変えなければと思うほど追い詰められ、思考が不安定になる。足元がおぼつかなくなり、心がぐらぐらと揺れる。
……不誠実だ。嫌な女だ。
「……はぁ」
――だめだ。こんなことではまた足を引っ張る。
明るい気持ちを取り戻したくて、花緒は亜蓮のカルテを探した。
同じ列にあって、すぐに手に取れた。打撲に骨折に裂傷……中身は痛々しい怪我の記録で埋まっていたが、その一つ一つにひたむきな修行の日々と穏やかだった日常が甦る。
地道で、実直な亜蓮らしいカルテに、涙目のままふっと微笑みがこぼれた。
家族のように過ごした二人のカルテを重ね、胸に当てる。
……これだけは持ち帰らせてください。二人の口から語られることのない、彼等の尊い軌跡のように見えたから。
「……ふぅ」
地に足をつけるように、心を鎮める。
ふと、視線が足元に散乱したカルテに向いた。これもまた一人一人の人の生きた証だと思うと、そのままにしておけなかった。
少し優しい気持ちで、花緒はひとつひとつカルテを集めていく。空いた隙間にまとめて返すつもりだった。
が、手に取った一冊に凍りついた。
――「渡良世 モモ」
「……えっ?」
全身から血の気が失せた。緊張で視界が狭まる。慌てて他のカルテを戻し、目を通す。
途中から電子カルテに切り替わってしまって5年前で記録は終わっている。だが、間違いなくモモの名前だ。
「どういう、ことなの……」
近隣住民しか来ない地域病院にあるはずのない名前。まさか、モモはこの近くに住んでいたのか?
慌てて個人情報欄を確認する。自宅住所は山を挟んで隣の市にあった。やはり市内在住ではない。だが、現にモモのカルテはここにある。
その時、不穏に蘇るモモの言葉。
――「……あの、逢魔時って?」
――「えーと、私情弱で……」
――「でも、もしよかったら、そこから聞いてもいい?」
今更になって、ぞっと疑問に火がつく。
どうしてモモは逢魔時を知らなかった?逢魔時は国中を魔に落とした厄災だ。現代の常識がひっくり返り、大勢の人の命が奪われた。情弱だから知らなかったで済まされる事件ではない。
「――っ、まさかあの男……!?」
3つのカルテを持って診察室へ駆け戻る。
そこでは、御之が闇の中でモニターを凝視していた。青白い画面にはやはり「渡良世 モモ」のカルテが表示されている。
花緒も横から食いつくように覗き込み、ハッと息を呑んだ。
――最終来院歴が……逢魔時の日になっていた。
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