第33話 「あの日までは、ただの春。あなたのいる世界で」
「ねぇ花緒。ちょっとデート、付き合ってくれない?」
「申し訳ありません。忙しいので」
「つれないなぁ。じゃあご飯くらい一緒にどう?」
「仕事があります」
「泊まりで遊びに行くのは?」
「あり得ません」
淡々とかわす花緒。懲りずににこにこと付き纏う慈雨月。
決まりきったような二人のやりとりを、亜蓮は内心ひやひやしながら遠巻きに見つめていた。
――慈雨月が花緒を意識するようになったことにはすぐに気づいた。明らかに態度が変わったのは2年前。花緒が18歳になった時。
数年ぶりに本家に顔を出した慈雨月に、相談事があると花緒が声をかけた。久しぶりに会った花緒に慈雨月は露骨に赤面して、言葉を詰まらせてから優しく微笑んだ。
大の大人が恋に落ちるところを、亜蓮はその時初めて目の当たりにした。花緒に応える声がやけに甘く穏やかに変わったことを、亜蓮は強い焦りと共に今でも鮮明に思い出せる。
唯一救いだったのは、慈雨月が好きな女の子に対して"揶揄う"という至極小学生じみた絡み方しかできないバカだったということだろうか。
(……いや、僕だって小学生だけど。)
「そんなに邪険に扱うことないだろ? 私だって花緒にしかこんなこと言わないのに……」
「またからかって」
「今日も可愛いね」
「世辞は結構です」
亜蓮はじっと二人の様子を睨む。
花緒はいつも通り、慈雨月を相手にしない。 それが少しだけホッとする。でも、そんな自分が一番気持ち悪いとも思う。
一番気の毒なのは花緒だ。
まさか好意を寄せられている相手が陰気なマセガキと変態オヤジだなんて、真面目に生きている花緒が不憫でならない。
二人まとめて滅んだほうがいい。
――せめて、誰かぐうの音も出ないくらい素敵な人が花緒の目の前に現れてくれたら、潔く諦められるかもしれないのに……。
「?」
「……っ」
――ふと、きょとんとする慈雨月と目が合って心臓が止まった。
すると、慈雨月は得意そうにふんと鼻を鳴らして笑う。意地悪く、明らかにこちらの気持ちに気づいた目で、挑戦的に、唇が音もなく――
「ま・せ・が・き」
……しっしっ、と手を払う。花緒の視線が逸れてるその間に。
「………………」
制御不能の怒りで、顔面がビキビキ引き攣るのを感じる。
――本っっっっっ当に、こいつだけはありえない。
頼むから、誰かこいつの本性に気づいてくれ。
それで誰か彼女に忠告してあげてくれ。
でも……もしかしたら、とも思ってしまうのだ。
二人は少し似ている。
――花緒の経歴は少し複雑だ。
華上に執事として仕える家は二つあるのだが、花緒はもともと護衛術で物理的に主人を守る《蝶塚家》の生まれだ。
花緒は蝶塚の護衛術を最年少の15歳でさっさと会得すると、結界術で主人の補佐を担う《鮎川家》の養子になった。
……彼女の銀の蝶の簪は、蝶塚の技を極めた者のその証。
一方、慈雨月も事情は違えどやや似た経歴を辿っている。
……慈雨月はもとは華上家の次男に生まれた。
それが、術師の適性がないとわかるや否や、9歳で家を飛び出して慈雨月家に養子入りし、経営を学び始めた。それが今では、たった35歳でグループ全体を纏める頂点だ。
――二人とも、自分にできること考え、ひたすら真っ直ぐに努力を積み重ねてきた大人だ。それぞれのやりかたで、自分にできる役割を全うしようとしている。
それに比べて――。
……亜蓮は、自分の生き方を直視すると、本当に消えたくなるくらいに自分が嫌になるのだ。
ただ特別な家に生まれたというだけで甘やかされ、術師として大した才能もない癖に、他にやりたいこともなければ、二人のように違う生き方を探す勇気もない。
並び立つ二人を見ると、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
――お似合い……なのかもしれない……。
「おいこら」
ふっと頭の上から優しい声が落ちた。
いつの間にか目の前に慈雨月が立っている。慈雨月は困ったように笑うと、亜蓮の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「何くさくさした顔してんだ。全く、しっかりしてくれよ? お前に華上を継いでもらわなきゃ、俺が困るんだから」
励ますような声音に、亜蓮の目が丸く見開く。
「お前が逃げたら次に白羽の矢が立つのは私なんだぞ。……期待してるんだからな」
慈雨月は少し揶揄うように笑った。でもその目が、お前の気持ちはわかるよと言っているようで、急に亜蓮の目の奥が熱くなる。
「心配いりませんよ」
そう、亜蓮の肩にそっと手を置いたのは花緒だった。
「私がいます。他の術師達も支えます。亜蓮様は人を思いやれる方ですから、周りが自然とついてきます。」
花緒は静かに膝をつく。
「亜蓮様、どうして私が鮎川に入ったかわかりますか?」
その後に花緒の口から紡がれたのは、まるで永遠を誓うかのような言葉で、亜蓮は今でも、その時のことを忘れられない。
「――ずっと、亜蓮様と一緒にいたいからですよ。結界を学べば、いつか体が衰えても術師としてお側にいられると思ったんです。花緒は、ずっと亜蓮様をお支えしますからね」
亜蓮の胸がぎゅうと軋むように音を立てる。いつか自分達が年老いても、ずっと一緒にいられる未来が見えた気がした。
「……ですから、慈雨月様もあまり人を揶揄うのはおやめください」
「やれやれ、羨ましいお坊ちゃまだね」
花緒が諌め、慈雨月は揶揄うように肩をすくめる。そんなやりとりが、亜蓮の心にすとんと落ちる。
(……あ)
どうしてかほっとしている自分に気づく。
この"輪"の中に、自分もいることに気づく。
「あーれーんー!!」
がばっ!と、姉――雪乃が後ろから飛びついてくる。木刀片手に後ろから亜蓮を抱きしめたまま、雪乃が甘えるみたいに体を揺らす。
「亜蓮! ねえ一緒に稽古しよー!? 誰も相手してくんないんだもーん!」
「あらぁ〜いいじゃなーい! じゃあ今日はママも参戦しようかしら〜!」
どこからともなく現れた母――芽覚に、一同の顔面が引き攣るように笑う。
「奥方様はお勤めがあるでしょう」
「え〜だってつまんないんだもん〜」
「やれやれ、この家の人間はみんな自由が過ぎるね。」
「えー叔父さんがそれ言うー?」
音が遠のいていく。
世界が、優しい静けさに包まれていく。
みんなが笑顔でじゃれあうように話すのを、亜蓮は映像の中のことのように見ていた。
――ああ。
……いいなぁ。
幸せだなぁ。
この時間が、ずっとずっと変わらず続けばいいのになぁ。
わかってる。変わらないものなどないって。
でも僕は、きっと今が一番幸せなんだ。
――そう、だから僕が大きくなったら、
僕が、この家を繋いでいけるようになろう。
この温かい場所を僕が残して、みんながいつでも帰ってこられるようにしていこう。
「もうすぐ、か……」
――見上げた淡い色の空に、桜の枝咲きで花が蕾んでいた。
もうすぐ桜が咲く。
桜が咲いたら、いつもみんなで花見に行くんだ。葉桜が眩しく新緑に輝く頃には、近くの神社の縁日に――。
――でも、その枝は今は焼け焦げ、助けを乞う黒い骨のように曇天に手を伸ばしている。
ずっと続くと思っていた。当たり前にそこにあった命が、営みが、繋がりが途絶えた。
――あの日までは、ただの春だった。
* * *
――花緒の隣に腰掛けたまま何を言うか迷ううち、亜蓮の意識は過去を遡っていた。
そうするうちに、亜蓮の胸に絡みついていた焦りや澱みは少しずつほどけていき、ぽつりとこぼれた言葉は、ただの素直な思いだった。
「……ずっと、言わなきゃいけないと思ってたんだけど」
花緒は静かに亜蓮を待っていた。
微笑んで顔を上げる。だが、目に映った亜蓮の横顔には――熱も揺らぎもなく、透明な光だけがあった。
空気がひやりと変わる。
「屋敷の片付けをしてくれたの、花緒だよね。……ありがとう。……今でも、たまに手入れしてくれてるよね」
「……え」
花緒の瞳が驚きに大きく見開かれる。亜蓮はその翠を真っ直ぐに映し返し、澄んだ声で言った。
「僕が覚えてる屋敷は、堕神に壊されて滅茶苦茶だったけど、瓦礫も壊れた場所も、みんな片付いてたから」
屋敷は――綺麗だった。
それこそ、また住もうと思えば住めるくらいに。
血痕は拭われ、雑草ひとつ生えず。死が満ちる千年京の中で、あの屋敷だけがひっそりと静かで、時を閉ざしたようだった。
もう誰も帰らない屋敷を、ただ一人で守り続けていたのは――確かに、花緒だった。
「……あ……いえ……」
花緒は小さく声を洩らし、手で額を押さえた。必死に従者の笑顔を整えようとする。
「私は……ただ……その、当然のことを……」
でも、無理だった。翠色の瞳から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「もしかしたら、直せばまだ、住めるかもしれないって……思って……!」
焼けた柱。崩れた壁。血の染みた廊下。
ありえない。
そんな未来は――ありえない。
その自覚が胸を抉った瞬間、押し殺していた感情は堰を切り、花緒は子供のように泣き崩れた。
「ごめんなさい……っ! 泣きたいのは亜蓮様の方なのに……私なんかが……!」
「……そんなこと言わないで」
震える花緒の肩にそっと手を置いた、亜蓮の目にも涙が溜まる。
「花緒は家族だから。僕も一緒に泣きたい」
次第に朽ちていく屋敷を、ただ見ていることしかできなかった花緒の孤独を思えば、胸が裂けた。
――僕は、一番辛いことを二人に任せきりにしてきてしまったのだ。
「皆のことも、花緒と慈雨月が弔ってくれたんだよね。……何もできなくてごめん」
花緒は嗚咽を押し殺しながら、首を振る。
「私は……ほんとに何も……。ほとんどは慈雨月様が……。……お墓は、外に……」
「……うん」
声を殺し涙を流す花緒を、亜蓮は抱き寄せた。顔を肩に埋め、花緒は幼子のように泣きじゃくる。
恋慕ではなく――ただ同じ時間を生き、同じ家を失った者同士としての、望郷だった。
「帰りたい、帰りたいです……! あの家が良かった……! あの家が良かったのにっ……!」
「――僕もだ……」
――花緒は、きっと繋ごうとしたのだ。慈雨月と二人で、華上の灯火を残そうとしたのだ。
それは生き残った者の義務ではなく、ただ、あの場所に息づいていた温かな日々を、なかったことにしたくなかったから。
「花緒がいて、良かった」
互いの輪郭を確かめるように、二人はぎゅっと抱きしめ合った。抱擁の中で伝わる体温が、心の傷を優しく埋める。
――亜蓮は静かに目を閉じ、心に誓った。
――守ろう。
家族を。
仲間達を。
痛みを抱え生きる、この都の人々を。
誰も二度と、あの日のように奪わせはしない。
そのために、自分は生かされたのだと。
花緒の後頭を撫でる手に力が籠る。
「……全部終わったら、三人でお墓参りに行こう」
花緒は亜蓮の腕の中で小さく頷いた。
――生きなければ。
犠牲的になるのでもなく、
生き残った者の勤めとしてでもなく、
私は、私を大切にしなければ。
生きた先に、また喜びがあると信じて。
貴方がいる世界で――。
「はい」
花緒は震える指で、亜蓮の着物の裾をぎゅっと握りしめ――小さく、涙声で頷いた。




