第27話 「生きて、そばにいて」
堕神の体が裂けた。大きな手で引き裂かれたかのように、櫓ごと無惨に真っ二つ。
「……終わった?」
モモは肩を上下させながら、呆然と呟いた。全身の筋肉がまだ小刻みに震えている。さっきまで張り詰めていた緊張が、一気に崩れ落ちた。
四刻の発動を確認し、柊馬も退魔札を挟んでいた指を下ろした。安堵とも警戒ともつかない顔で周囲を見回す。
「ふん」
シノが鼻を鳴らした――その顔が凍りつく。堕神の割れた胴体が、みるみる狂愾を吸い込みながら、どろどろと蠢き、這い戻りだした。
「なっ……!?」
スマホの画面越しにそれを捉えた真珠が青ざめた。
「どういうことだ……四刻は発動したはずなのに……」
信じられない光景に、シノが声を詰まらせる。亜蓮も刀を構えたまま、冷たい汗が背筋を伝った。
(異常な再生能力……やっぱり、モモの時と同じ……!)
堕神は不気味にうねり、再び傘頭の踊り子達を吐き出す。それだけじゃない。放つ圧力は、さっきまでとは比べものにならないほど膨れ上がっていた。
真珠の声が震える。
「前より、強くなってるのか……!?」
(馬鹿な……! シノの四刻は"概念的な死"に帰属する呪術だから、敵の生命のあるなしに関わらない必殺技だぞ。なぜ再生できる!?)
「神尾さんッ!」
剛健の叫び声に、真珠が振り返る。剛健は蒼白になって震えていた。
「もう、札の残数が……!」
その言葉に、真珠の背筋が凍る。柊馬も腰のポーチをにらみつけ、ギリ、と奥歯を噛んだ。残りわずかな退魔札が、再戦への絶望を突きつけてくる。
――振り出しに戻る。いや、それよりもっと酷い……!!
* * *
繰り広げられる戦闘を、屋台の屋根からずっと見下ろしてた二つの黒い目。否ーー黒い土鳩。
その目に吸い込まれるように視界が暗転する。変わって映し出されるのは、薄暗い、高貴な装いの座敷。
黒い烏帽子をかぶり、平安装束に身を包んだ鳩頭が、頬杖をついてこちらを見ていた。その視線の先には、六面の鏡。鏡は再生する堕神と、青ざめる退魔師達を映し出している。烏帽子頭は、どこか女のように艶のある声で、くすくすと笑った。
「驚いておる驚いておる。絶望しておるの? 朕の生み出した《祭囃子尊》の力に」
しつこく頭を揺らしながら、嘴でカッカッカッ!とそばの甘納豆を啄む。
「今回の贄の数は、前回とは桁違い。再生力は比べものにならぬ。奴らも結界に閉じ込められてしまっては札の補給も瘴気の回復もできまいて……」
細長い扇子の先が、ゆっくりと頬をなぞる。
「平門 氷室がかからなんだのは口惜しいが……良い良い。この《禍玉》を砕かれぬ限り、朕の堕神は永久不滅なのじゃからな!」
バッ!と金の扇子を勢いよく開く。そこには黒い墨で書かれた――『堕』の一文字。そして細い指に、ぎらりと光る勾玉型の指輪。
「この宴祭で、退魔師隊も暁月も一網打尽じゃ!!」
すると、脇に控えていた忍者装束風の鳩頭たちがわあっ!と大きな拍手で煽て始めた。
「よっ!さすが我が君!この世の叡智!」
「祭り一つ、堕神一匹でこの大収穫!」
「能ある鳩は爪を隠す!」
「ぽーっぽっぽっぽ! さもありなんんんんん〜〜〜っふふふ!!」
烏帽子頭は喉を反らし、高らかに笑った。
「今回は《大内裏ノ命》の時のようにはいかんぞえ……。さあさあ、皆殺しじゃーーっ!!」
わあっ!!と不快な歓声に沸き、烏帽子頭の鳴き声が反響する。
*
射撃銃が火を噴く。放たれたコルク弾を、無数の光の矢が空中で撃ち抜いた。真珠が驚き振り返る。
「――!? 雑用くん!?」
「てめぇ! 異能使えたのかよ!!」
「見様見真似でやっただけです……!!」
矢を放った構えのまま、柊馬は荒く息をつく。初めて発動させた異能。ぎこちないが、イメージに近い形で出せた。
(――だが、これは……!)
「っ、ぐぅぅ……!」
急激な反動が襲い、柊馬は膝をつく。手首を見やると、霊石が一瞬で炭になっていた。急激なスピードで瘴気汚染が進む。
「む、無理はいけません! これを!」
剛健が慌てて予備の霊石の数珠を柊馬の手に握らせる。みるみるうちに、瘴気が数珠へ吸われ、黒く変色した。
(瘴気が濃い……! いや、狂愾の影響か!? これ以上魔力を使うのは危険だ……!)
剛健の心臓が、焦りに駆られ速くなる。
モモは荒い息を吐きながら、柊馬達の様子を見やった。
(亜蓮さんの浄化の炎があるとないとじゃ、使える魔力にこんなに差が出るのか……!)
だが、モモ自身もかなりの魔力を使い果たしていた。 鬼神化の時の勢いで過剰に魔力を使ってしまった。あの高火力は御之の魔力供給があってこそだったのだ。
(でもここで諦めたら、誰がこの人たちを守るの……!)
「はぁ、はぁっ……」
花緒は荒く息をつき、意識を取り戻さない。
涙を流したまま浅く呼吸する彼女を、亜蓮が痛々しい目で見つめる。そしてアトノマツリを一瞥し、そっと、花緒を石灯籠に預けた。
「……モモ、下がって」
「でも……!」
「君は花緒についていて。……あとは僕がやる」
亜蓮がゆっくり立ち上がる。すると、花緒が弱々しい力で羽織の裾を引いた。幻覚に囚われた、朦朧とした目だが、それでも縋るように呟く。
「い、いか、ないで……」
「……」
亜蓮の胸がギュッと締めつけられた。
亜蓮はもう一度、花緒のもとに戻った。花緒の細い肩が小刻みに震えている。涙で霞んだ瞳が、不安そうにこちらを見ていた。しゃがみ込み、花緒の手に静かに触れる。
「花緒……」
翠の瞳を見つめ、ぐっと祈るように目を閉じる。
――思い出すのは、あの春の日。後ろ髪を引かれるような顔で去っていった、彼女の姿。
慈雨月に手を引かれるように、花緒はあの日、自分の前を去った。次に会ったときにはもう、彼女はあの男の恋人だった。
もう二度と、戻らない。
二度と、手を伸ばせない。
でも。
それでも――伝えたい想いが、込み上げてしまう。
「――僕は、あの日……、君が行ってくれてよかったと思ってるよ」
亜蓮は、絞り出すように声を出した。
「あの日の僕じゃ……君を守れなかったから」
花緒の瞳がわずかに見開く。その声に、翠色の光が小さく揺れた。亜蓮は花緒の手を取り、自分の頬へ導く。いつも、花緒がそうしてくれたように。
「君が行ってくれて、良かった。生きて、また会えて、本当に良かった。だから、ありがとう。生きていてくれて。また、僕を見つけてくれて」
赤い目に、涙が滲む。
「だから――」
亜蓮の唇が震え、花緒の指に熱い涙が伝う。
「生きて、今の僕のそばにいて。もう――離れないで」
鏡のように花緒の瞳が開き、確かに、亜蓮を映した。
「今度こそ、僕が必ず、君を守るから」
――亜蓮はそっと花緒の手を離し立ち上がった。
黒い衣が、静かに背を向ける。花緒の指先がそれを掴みかけ、離れた。黒衣がふわりと揺れながら遠ざかる。
亜蓮がシノの隣に並び立つと、シノは吐き捨てるように鼻で笑った。
「……ハッ、感動ポルノは終わりか? 見せ場は譲ってやるよ。」
瞳に呪詛と妬みを宿し、シノが舌打ちする。
「どうせ言うんだろ?『俺ならやれる、君達は安全なとこに』。……一昔前のイキり主人公みたいな顔しやがって、ッカつくんだよ、お前」
吐き捨てるような挑発。だが亜蓮は堕神を見据えたまま静かに返す。
「……ああ。僕ならやれる」
「ははっ、そうくると思ったわ!!」
シノが亜蓮の胸ぐらを掴んだ。
「ならてめえ一人でやれよ! 全部、最初から!! 俺らなんかどうせ自分の引き立て役だとでも思ってんだろ!!」
怒りをぶつけるその目は、無力と苛立ちに追い詰められた色をしていた。亜蓮はその目の色を、知っていた。かつての無力な自分と同じだからだ。
「うぜぇんだよ……! てめぇみたいな達観ぶった奴、他人見下してる奴! 情けかけたつもりで相手の鼻面折って、得意か!? 満足かよ!? 全部余計なお世話だ!!」
亜蓮の首元を締める手がぎりぎり震える。
「俺は……てめえの言いなりにはならねぇ。ここで死のうが、お前の思い通りにだけは動かねぇ!! 俺は俺のやり方で戦って死んでやる!!」
その瞬間、亜蓮の瞳に怒りが閃いた。
「――うるさい!!」
今度は亜蓮がシノの襟元を掴む。シノが驚いて目を見張った。
「勝手に僕の気持ちを分かったつもりになるな! 勝手に、僕の目の前で死ぬな!!」
シノが言葉を失い、モモも遠くで硬直する。
「『お前一人が全部やれ』? そうできたらどんなにいいかって思ってるよ……! でも、僕一人じゃできなかった。どんなに力をつけても、僕の本質は変わらなかったから!!」
亜蓮はシノの服をぎりっと握りしめた。
「もう僕は……誰かがあんな風に惨い目に遭って死んでいくのは、嫌なんだよ……!」
シノが呆けたように呟く。
「お前……喋れんのかよ……」
亜蓮の刀が光に包まれ、次の瞬間、錫杖へと変わった。シノの胸を錫杖で押し返す。
「ここにいる人たちも……お前も、お前の仲間も、僕の仲間も! 誰も死なせない。殺させない!」
涙を溜めた赤い目が、罪と業に揺れる瞳が、シノを睨み据える。
「これからお前達の周りに結界を張る。そこから動くな、余計な手を出すな!! ――迷惑だ!!」
シノが息を呑んだ。モモが何か言おうと足を踏み出しかけた、が。
「ま、まあまあ! そんなに揉めないでよ……!」
慌てて割って入ったのは真珠だった。
「やー悪いねぇ。こいつ、こういう言い方しかできない奴で。ごめんねほんと! お子ちゃまで!」
「はあ!?!?」
真珠に肩を組まれ、シノが吠える。
「まあでも、つまりはこの子も本気なんだ。悪く思わないでやってくれ」
真珠の穏やかな目に、亜蓮が僅かにたじろいだ。
「それに、この場は引かないという点に関しては、私も概ねシノと同意見だよ」
真珠の顔がふっと真剣になる。
「どんなに絶望的な状況だろうと、人の命が懸かってるならそれは諦める理由にならない。私達だって、ずっとこの紙切れ一つを武器に生き延びてきたんだ」
腹を括ったようなその眼差しに、亜蓮は言葉を失った。
「折角だし、今のうちに確認しておこうか」
真珠が退魔師達を見渡す。
「ここから先の戦闘は、生存率が低い。戻れても致命的な後遺症を負うだろう。それでも戦いたいと思う人だけついてきて。……ま、何もしなければ死ぬだけだけどね」
「俺は続けるからな」
シノは一歩も引かず、後ろのひなこをちらりと見やる。
「なこたんだって……このままほっとけるわけねえだろ」
「うんうん、そういうの好きだよ」
真珠は肩越しに、剛健と柊馬に微笑みかける。
「クガくんと、雑用くんは?」
「俺は神尾さんに従うだけですので……」
「いえーい、さっすがー♪」
「俺も、最後までやらせてください」
柊馬も、剛健に支えられながら立ち上がった。
「札は倒れている退魔師から掻き集めます。まだ、やれることはあります」
「いいねぇそういう泥臭いの! 採用!」
真珠が楽しそうに指を立てる。
「というわけ。ここから先は私たちの好きにやらせてもらうからね」
退魔師達が、真珠とシノを中心に、ひとつにまとまる。その一体感が、亜蓮の胸を締め付ける。
「もちろん、君に全部を背負わせるつもりはないし、簡単にくたばる気もないよ。まだ君達のこと、それだけの正義感がありながら国家に与しない理由も……。知りたいことは山ほどあるしね」
真珠が軽やかに言い、白いコートを翻し、前を向く。
「では――健闘を祈るよ」
退魔師達は背を向け、一塊になって歩み出した。亜蓮はその背を見つめたまま、指先が震えた。
(なんで……。どうしてそんな簡単に腹を括れてしまうんだ?)
この人達も。あの時の姉さんも。誰かの為に、迷いもなく……命を投げ出すようにして……。
――じゃあ、お前はどうなんだ。
胸の奥で、誰かの声が問いかける。
中途半端に人を巻き込んで。一つの組織のリーダーを名乗りながら。肝心な覚悟は、どこにも定まらない。
(僕は……僕は……)
俯いて、唇を噛む。思考を闇に沈め、そして脳裏に浮かぶ。
まず……御之。それから千助。花緒。モモ。そして自分。そして、目の前のこの四人。
―― 一枠足りない。
(……でも、まだ、やれることがある)
亜蓮の赤い目の奥が覚悟に燃える。
何を恐れることがある?
(……そうだ。僕が一番怖いのは……)
何もできず、誰も守れず、無意味に自分だけが生き残り、この命を燃やし尽くさずに終わることだ。
「……わかった」
錫杖を強く握りしめる。退魔師達の背中を見つめたまま、短く呟いた。
「それなら、僕も……好きにさせてもらう」
*
錫杖が振り上げられ、鋭く地面に突き立った。
瞬間、澄んだ黄金の炎が爆発したように広がり、全ての瘴気を吹き飛ばす。
「――!!?」
退魔師達が驚き、振り返る。
亜蓮の足元には八方へ咲く蓮弁の光陣。その中央で曼荼羅が静かに回転し、澄んだ鈴の音が響いていた。
光の輪は目を灼くほど鮮烈。完璧な光の法陣。
八人のために与えられた、調和と秩序の輪。
だが――
「これで、足りないなら……!」
亜蓮の赤い瞳が軋むように明滅した。
ガラスを引っかくような音と共に、八つの蓮弁が無理やり裂けるように引き伸ばされ、細い葉脈にヒビが走る。びしっ、びしっと悲鳴を上げるように軋み、八つの花弁は無理やり十二へと増殖した。
亜蓮の鼻から熱い血が垂れる。だが次の瞬間、亜蓮の口から熱い血が噴き出した。吐血が曼荼羅を濡らし、冷たい地面に散った。それでも、血で赤く染まった瞳を開き、震える手で錫杖を握りしめる。
真珠が小さく息を呑む。
「そうか……君は……!」
(その力は……国家に与せず、あえて少数精鋭を貫いていた理由は……!!)
眩い光に目が眩む。モモの全身に悪寒が走る。
「あれ、私が力をもらった時と同じ……?」
でも、あの時はあんな曼荼羅のような陣は現れなかった。亜蓮があんなに苦しむ様子もなかった。
嫌な予感が止まらない。軋みながら、姿を変えようとしている光の陣。明らかに前と違う。
(何かを、書き換えようとしてる……?)
怖い。わからない。でも、確実にわかることがあった。それは、やっちゃダメなことだと。
亜蓮の喉で血が泡立ち、全身の神経が焼けるように痛む。歯を食いしばり、叫んだ。
「ぐ、っっ……うぁああああああああ!!!!!」
ーーーパキィィンッ!
割れる結晶の音が響き渡った。
新たな力――《浄炎華法・十二方陣》が完成する。
それは、定められた理を破り、人の手で書き換えられた――禁忌の曼荼羅。
亜蓮が血に染まった瞳を見開き、4人に向かって鋭く叫んだ。
「それを取れ゛っ!!」
曼荼羅から、四つの炎の玉が矢のように飛ぶ。灼けつく炎を纏った魔力の塊が、真珠、シノ、柊馬、剛健の目の前に突き刺さった。




