第25話 「永祭結界《アトノマツリ》」
――風が、音が、重力が、一斉に崩れ、捻れ、加速する。
朱と墨と橙の光が乱反射して溶け合い、狂った万華鏡のように押し寄せる。
五人の退魔師達は、ひなこを中心に身を寄せ一塊になった。
誰のものか判別できない激しい心音が耳の奥で鳴り響く。
「来たぞォ……来た来た来た来たァァアアア!!」
真珠が歓喜と狂気を込めて叫ぶ。
次の瞬間──足が、地に着く。
がくり、と重心が落ちる感覚と共に──視界がバッと開けた。
「──っ!」
柊馬は恐怖に息を呑んだ。
広がるのは、色彩を失った霧の世界だった。
空は天蓋のような闇。重力の法則を無視して浮かぶ無数の赤黒い提灯。黒い霧が石畳を舐め、甘く腐った祭菓子の匂いが鼻をつく。
そして、その中央だ。
堕神と呼ぶしかない巨影が、地上を支配するようにそびえていた。頭部には濁った黄金色の屋根が乗り、膝下は櫓となっている。倒れ伏した人々の頭上で触手とも腕ともつかない影を躍らせていた。
「ようやく元凶のおでましか……!!」
凍りつく柊馬と対照的に、シノは燃えるような目で笑った。
――ここにあるもの全てが、現実を覆う仮面だ。歪ませられた願いが、辿り着いた最果ての地。終わらない望郷の歓びに縛られる、魂の檻。
【永祭結界】
真珠が両腕を引いてガッツポーズを取った。
「──っ、しゃあアアア!!」
「う、うまくいきましたね……!」
真珠が吠え、剛健も作戦成功に安堵し震える。だが、柊馬の目に浮かぶのは戦慄だった。
「ですが、これは……」
突入成功を喜ぶ余裕などどこにもない。目の前に、地獄が形を持って顕現している。堕神を見上げる群衆の目は濁り、妖しく瞬く提灯の色をそのまま映し返していた。
――数百人はいる!
これから死闘を繰り広げなければならない戦場に、自力で逃げることも身を守ることもできない生きた人々がひしめいている。
「こんな数の、人々が……!」
「ああ……その通りだ」
額に汗を浮かべ狼狽する柊馬に、真珠の声も震えた。
「この規模の人間が一度に被害に遭うのは、逢魔時以来初だ……!」
突然開かれた祭り。魔力探知のできない敵。人混みの多さに乗じた集団神隠し――真珠の感覚が、これは偶然などではないと告げている。
「はっ、雑魚がビビってんじゃん。ここからが楽しー本番だっつーのにさぁ!」
血走った目でシノが笑う。が、その視界が蜃気楼のようにブレた。
「――は?」
――夕焼け色の帰り道。白い服の女。差し伸べられる手の温もり、微笑む唇。それを見上げて笑う、幼く無垢な、自分。
「──ッッッ!!」
間一髪で意識を取り戻し、シノが息を吹き返す。全身からどっと冷や汗が溢れた。今、呼吸が止まっていた。
(……今のは、なんだ? 俺の、母親……?)
「な……なんだ、この頭の中の……ッ!」
剛健の額に滝のような汗が流れる。彼の視界にも、同じような懐かしい景色が送り込まれていた。
精神攻撃だ。柊馬も幻惑を振り切ろうと頭を抑えた。意識が浸食されている。内側から、抗いがたい望郷の感情が湧き出してくる。
帰りたい。帰りたくない。帰りたい。帰れない。
(──違う……!)
ありもしない記憶に、シノは怒りで目を血走らせた。血管が焼き切れそうな怒りが、甘い幻を焼きつくす。
(俺の母親は、そんなことしねぇ……!!)
「……っなるほど、意識に直接干渉してくる系かぁ……! そういうの大好物なんだよねぇ……!!」
額を押さえつつ、真珠が不敵に笑う。彼女もまた、彼女のやり方で精神攻撃に抗っていた。だが――。
──ドサッ!!
「瑠璃染さん!?」
崩れ落ちたのはひなこだった。柊馬が駆け寄り、ひなこを抱き起こす。瞳を見開いたまま、ひなこは震えていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 悪い子でごめんなさい、ごめんなさい……!」
「……ハッ、SANチェック失敗ってとこか」
汗だくのシノが鼻で笑い、周囲の民間人に鋭く目をやる。
なるほど、ここにいる全員が、あの堕神の見せる紛い物の景色に囚われているのだ。だが知ったことか。堕神を倒せば全て終わる話だ。
「あ?」
――視線?シノが振り返ると、明らかに意識を保ち、こちらを認識している一人の青年と視線が合った。
亜蓮だ。
「……っ!」
気取られた。シノと視線がぶつかった瞬間、亜蓮の背筋が凍りつく。
「なんだあいつ?」
眉間に皺を寄せ、シノが亜蓮を睨みつける。腕には意識を失っている桃色の髪の少女と、武器であろう金色の錫杖。
「民間人、でしょうか?」
「いや、あの感じは野良の退魔師か誰か……」
剛健と真珠も気づき、青年を観察する。だが、シノの目がだんだん見開かれていく。
「いや、アレは……」
黒衣。赤い瞳。そして錫杖。全ての特徴に付合する者がこの千年京で一人だけいる。国家退魔師であれば、その名を知らぬ者はいない。
「お前……暁月か……!?」
その名を呼ばれ亜蓮の全身が強張った。だが、その緊張を真珠の歓喜がぶち破る。
「えっ!? 嘘マジ本当に!? 君が!? うわぁあああやっと会えたーーー!!」
真珠が目を輝かせ、少女のような声色で両手を組む。
「こんばんはー! 国家退魔師隊でーす! はじめまして ーー!!」
この地獄にきた亜蓮を歓迎しているみたいに、真珠はぶんぶん手を振った。場違いなハイテンションに、亜蓮がびくっと肩を震わせる。が、すぐに警戒の色を濃くして錫杖を握りしめた。
(……まずい。やっぱりここまで辿り着く退魔師隊もいたか……! 氷室はいないみたいだけど、このままだとモモの正体が……!)
「ぅ……ん……」
「モモ……!?」
朦朧としながらも、モモの意識が覚醒してくる。苦しげに目を開け亜蓮の姿を確認すると、強張っていた表情に安堵が滲んだ。
「あ、亜蓮、さん……。ここ……神隠しは……?」
「ああ。うまくいった」
亜蓮が言うと、モモは僅かに目を見開いた。やり遂げた喜びで疲れたような笑みが浮かぶ。
一方、柊馬は冷静にモモと亜蓮を観察していた。
(あの結界の張り手は……あの二人のどちらかなのか?)
暁月――まさか居合わせることができるとは。
国家退魔師隊の中には彼等を危険視し、敵対勢力とみなす者が多い。だが、柊馬にとってはそんなことどうでも良かった。あの結界をこの目で見たから。
国家非公認にして最強……だがわかる。敵ではない。
そして知りたい。彼らの中にあの結界の張り手はいるのか?
(結界から感じた魔力と質が違う。まだ、他に仲間がいるのか?)
柊馬がさっと亜蓮の周囲を見るが、他に仲間らしき人はいない。
一方、シノの視線はモモへ向いていた。
(あのピンク髪がトリガーだな)
普通の女の子――それが第一印象。なのに何故だ?彼女も堕神に精神を引っ張られたはずなのに、こうして正気を取り戻した。トリガーになった人間は、便乗した人間より精神汚染の深度も洒落にならないと思っていたのに。
──いや、そんな細かいことはどうでもいい。格好の獲物の出現にシノが笑う。
(アレも暁月の一員なら、只者じゃあないってことだ)
――その時だ。ぞっ、と空間の空気が震えた。
提灯が一斉に赤黒く染まり、堕神の影が一瞬脈打つ。人々の目が、次々に紫に染まって動かなくなる。
「──!? 何……!?」
モモが慌てて見渡すと、人々の口から淡い紫のもやが立ち昇りだした。苦悶、絶望、怒り、悲しみ……負の感情が煙のように実体化し、それを堕神が身体中で吸いあげていく。
真珠の顔から笑みが消えた。
「まずい! 狂愾を喰ってる!」
「狂愾!?」
思わずモモが聞き返した。
「堕神の糧だよ! 人間の負の感情を濃縮した“感情エネルギー”! まずいな……この数の人間の狂愾喰われたら、どんな手段でも止められなくなる……!」
一刻の猶予もない状況か。真珠が奥歯を噛み締める。
「暁月君! 本当はもっと話したいけど、こっちは緊急モードだ! 人命救助と堕神討伐、協力して!」
だが、その一言にシノが反発した。
「ふざけんな! こんな大物、譲るわけねぇだろ!」
「ちょ!? シノ!?」
真珠が慌てて制止の声をあげるが、シノは既に堕神を撃ち抜くように指差していた。
シノの瞳が赤く輝き、すっと息を整える。
「"我この者を死へと誘う──《四刻印》"!」
瞬間、堕神の胸元に赤い時計の陣が刻まれた。秒針が狂ったように回転し、死のカウントダウンが始まる。
(──『忌み数の概念』の術式!?)
亜蓮の背筋が粟立つ。
「あれって、カウントダウンですか!?」
「恐らく、"四は死を連想する"の呪いだ……」
言霊の力を利用した異能だ。文字や数字に意味を重ねる。現代でも日常や人間の潜在意識に根付いた強力なまじないだ。
「ちょっと!! 彼らを観察する絶好のチャンスなのに!!」
「るせえ! さっさと片付けんのが一番だろ!」
言い返され、ぐぬぬと真珠が唸る。
「……あーもう、その通りだよっ!! 全員、シノのバックアップだ! 《四刻》発動まで時間を稼げ!!」
その声と同時に、退魔師隊は札を構え一斉に走り出した。札が空を裂き、雷光が閃く。彼らはシノの能力を知っているのか、動きに迷いがない。
「あのカウントダウンが終わったら、あの堕神は死ぬってことですか?」
「ああ。多分、4分後か、4分44秒後か」
亜蓮の目が、両手をポケットに突っ込み堕神を睨むシノを映す。
一定時間の経過後、確実に相手を死、たらしめる。確かに手っ取り早い、そして強力な呪いだ。
――だが、人を呪わば穴二つ。他者を呪う代償は大きいはず。
まともじゃない。シノの異能に、亜蓮の胸の奥がざわつく。
(それにあの堕神、何か違和感が……)
その時、亜蓮の思考を遮るようにシノの怒声が飛んだ。
「おい暁月! てめえも働け!」
「暁月君、君達も頼む!!」
真珠の声も重なる。彼らの瞳に燃えているのは、打算も思惑もない純粋な正義感だ。危険な呪いを異能とするシノにですらそれを感じる。
――この窮地で、信用に足る人達。
この直感を信じるしかない。亜蓮の喉が固唾を飲んだ。
「亜蓮さん、どうするんですか……?」
モモがふらつきを抑えて立ち上がった。
亜蓮は数秒だけ、覚悟を決めるために瞼を閉じた。再び目を開き、強い使命感を宿した目でモモを見据える。
「捕まってる人達の安全が最優先だ。モモ、すまない。君の正体も晒すことになるけど……」
「もちろんです!!」
モモは笑顔で即答した。迷いのない真っ直ぐな返事に、亜蓮は僅かに目を丸くしつつもすぐに頷いた。
「僕は、戦いながら花緒を探す。なんとか正気に戻さないと。捕まった人々を安全に元の場所に戻すには、花緒の結界が必要だ」
本当は花緒の顔が国家退魔師隊に認識されるのは避けたかった。だが……今はこれしかない。
「ん? ちょっと待って、あれ千助さんじゃ……?」
モモが人混みを指差す。そこには、実に幸せそうな笑みを浮かべてふらふら徘徊する千助がいた。
「あははは待ってよモモちゃぁ〜ん! もっと遊ぼうよぉ〜!」
幸せな幻覚を見せられているのか、正気は失っているが無事ではある。あと、ちょっと他に比べて目立つ。
亜蓮がやや眉間を険しくする。
「……そのままにしとこう」
「わかりました!!」
モモが間伐入れず了解した。
「あんなんだけど、あいつの力がバレるのが一番まずいんだ。接触は避けて、他の民間人に紛れて救助させる」
「そういうことなら。わかりました!」
モモが硬く頷き、亜蓮の胸が熱くなる。
本当は、聞きたいことが山ほどあるだろう。だが、モモはただ自分の言葉を信じて動いてくれる。そんな彼女が今この場で――何よりも心強い。
「頼んだ」
「任せてください!」
その一言を皮切りに、祭囃子の残響が、再びうねり始めた。
狂気の音色の中で、国家退魔師隊と暁月が立ち上がる。
戦闘に臨むその前――亜蓮が、隣に立つモモに低く告げた。
「本当に、よく戻ってきてくれた」
「……亜蓮さん、舐めないでくださいよ?」
モモの手の中に黄金色の斧が現れる。それを肩に構え、モモはニッと笑った。
「私──鬼なんで!!」
モモが斧を前へ振りかざす。桃色の炎が舞い、渦のように体を包む。炎が花びらのように散り消えた時、モモの額に白銀色の光に輝く角が現れていた。
……そう。鬼とは常に、どこからともなく現れて、どこへともなく消えていくもの。隠り世と人の世を行き来することなど、彼らにとっては造作もない。境界を跨ぐという行為は、鬼には呼吸のように日常事。
常に彼らは、騒然と現れ、力の限り場を荒らし、蹂躙する。
「──さぁて、暴れちゃいますよ!!」
異形へと姿を変えるモモ。退魔師隊達に、電流のような衝撃が走った。
「あのガキ……!?」
シノの声が僅かに震え、柊馬が絶句する。
「しょ、正気の鬼……!?」
剛健の瞳が大きく開いた。ありえない光景を前に、脳が処理を拒み、誰もが言葉を失う。
「あは……!」
その中でただ一人、真珠の瞳だけが異様な輝きを放つ。
「マジの、マジの、異魔者だああああ!!」




