第23話 「神隠しの条件」
「神隠しって、あの神隠しですか?」
モモの問いに亜蓮は無言で頷いた。警戒を絶やさず鋭く周囲を見渡している。
「実際に見るのは初めてだけど、間違いないと思う」
亜蓮の張り詰めた声に、モモの緊張が増す。
これが、神隠し?聞き馴染みのある言葉だが、今の今まで伝承の中での単語だった。そして想像以上に――わけがわからない。怖い。
「神隠しは本人も周りも気づかれないまま発動する"現象"なんだ……。だから魔力探知にひっかからなかった……」
「じゃあ、もうみんな……!」
「この神隠しを起こした堕神の結界の中にいる」
絶望でモモは言葉を失った。だって、モモの知る『神隠し』は――救出不能。神隠しに遭遇うお話はあっても、助けに行くことが叶ったお話は聞いたことがなかった。
その時、林の奥から重たく澱んだ冷気が吹き込んできた。異形の気配と瘴気が流れ込むのに気づき、モモが弾かれたように振り返る。
「……!? 今のは!?」
「花緒の結界が切れた」
亜蓮はすぐに錫杖を呼び出すと、住職の手を引いて近くの木の影に彼を隠した。住職の足元に鋭く錫杖を打ち下ろすと、淡い光の結界が彼を包んだ。
「これで異形達に気づかれることはない……」
「助けられるんですよね!?」
藁にもすがる思いでモモは叫んだ。亜蓮のこめかみに、緊張で汗が伝う。
「それには、僕たちも内側に入らないと」
「つまり、私達神隠しに逢わなきゃってことですよね?」
「いや。起こす。こっちから」
モモの背筋がぞくりと凍った。
神隠しを起こす?神隠しという言葉から、あまりにもかけ離れた作戦だった。
「そんなことできるんですか?」
「試すしかない。でも、条件はなんとなく見えてきてる」
思考する亜蓮の声は静かで、それでいて火を燃やすように焦りと熱を帯びている。
「一つは"神域に踏み入れていること"。これは、大社の境内全体がすでに神域だから、クリアしてる」
そうだ。大社は結界に囲われて安全だと思っていたが、そもそも大社自体が神の領域なのだ。
「そしてもう一つは……"呼ばれること”。向こう側から」
「呼ばれる?」
「こっちが無理やり踏み込むんじゃなくて、あちら側から“引き寄せられる”必要があるはず」
亜蓮は口元に手を当てながら必死に思考を巡らせる。
「あと、これは条件というより特徴だけど……多分、“手を繋いだままだと、一緒に連れていかれる”」
妙に納得のいく理屈でモモは頷いた。兄弟で神隠しに遭った、なんてお話を昔読んだ気がする。
「でも、呼ばれるってどういう基準で?」
「神隠しは、神と人、両方の気持ちが揃ったときに起きるとされてる」
亜蓮の声がほんの少し、沈む。
「例えば、山で迷った子どもが"寂しい”、"助けて"って願ったとき、“遊ぼう”って何者かが現れるとか」
「えっ!? それ、揃ってます!!?」
「大事なのは“互いが受け入れ合う”ってことのはずだから、このくらいルーズでもいけるはず」
説明しながらも上手く形容しきれないのか、亜蓮は口元に手を当てて言葉を探し続けている。
「なんか、昔話みたいな……」
あっ、とモモが息を呑んだ。
――“夜に口笛吹いたら蛇が来る”とか、“墓を壊したらバチ当たるで”とか……昔話とか、そんなんでもええんや。
そうだ、御之も言っていた。
千年京では、昔話やおまじないが現実に霊的法則として機能している。亜蓮が探っているのは、まさにその『神隠しの法則』なのだ。
「と、とにかく、消えた人達がみんな何を望んだか分かればいいってことですね!? 花緒さんは何か言ってませんでしたか?」
「花緒は、過去の記憶を何度も見せられているって……」
「私も! ここに来てから昔のこと何度も思い出してました。でも、それって普通じゃないかと思ってましたけど……」
言いかけて、モモはハッとなった。その普通につけ込み、過去の記憶を見せる。それが堕神の能力だとしたら、この集団神隠しにも辻褄が合う。
「千助は何か言ってなかった?」
「えっ……!? うーん、むしろ“祭りにいい思い出なんてない”って……。――あ! でも、さっき“帰りたくない”って言ってた……!」
「……"帰りたくない"、だから"帰さない"。大雑把だけどいけそうだ」
亜蓮が確信したように頷く。
「これだけ多くの人を引き込んでるのなら、僕達も条件さえ満たせば呼ばれるはず」
「でも、消えた人全員が帰りたくないなんて思ったんでしょうか?」
「いや……きっと、もっとこの時間を楽しみたいとか、帰るのが惜しいとか、そのくらいの感情でも共鳴するのかもしれない」
「それならあの子たちは……逢魔時に、みんな家族を亡くしている」
ずっと二人の話を聞いていた住職がぽつりと口を開いた。亜蓮とモモの視線が、落胆して座り込んだままの住職に向けられる。
「みんな化け物に怯えながら、毎日孤独と恐怖の中で生きてきたんです。あの子達が、“今のこの時間だけは終わってほしくない”と願ったとしてもおかしくはありません」
涙ぐむ住職の言葉に、モモも亜蓮も黙り込んだ。
――花緒が、そんなふうに願ってしまったのか?
亜蓮は僅かに奥歯を噛んだ。亜蓮の知る花緒は、過去に囚われるような性格ではなかったはずだ。それが……どうして……。
「じゃあ、“寂しい”とか“帰りたくない”って思えば、私も呼ばれる、ってことですよね?」
「……できるのか?」
亜蓮の射すような真剣な視線に、モモは一瞬たじろいだ。
「で、できないことはないと思いますけど、なんで?」
「僕は……多分、できないと思う」
モモは耳を疑った。亜蓮は僅かに目を伏せ、低く続ける。
「思い出はある。でも、感情までは引き出せない」
モモは声が出なかった。だって、亜蓮にだって小さい頃の楽しかった思い出くらいあるはずだ。逢魔時に家族を失ってるなら尚更、戻りたい時や、懐かしい記憶だって……。
――いや、違う。そうじゃないだろ!
思い出せば、きっと心が壊れてしまう。だから、感情も記憶も懐かしさも、全て蓋をして心を守っている。これは、そんな顔だ。
私がやるしかない。モモの胸の奥で、熱い炎が灯る。
「それに、呼ばれるのはどちらか一人にすべきだ。モモが"呼ばれる"なら、僕は“引っ張って”もらいたい」
「了解です。バラバラに突入したら危険だし」
「それもあるけど、呼ばれた人間は精神を掌握される可能性がある。だから呼ばれた側は……」
「動けなくなるってことですね!」
モモが理解して声を上げた。つまり、モモは呼ばれた瞬間、精神も体も無防備になる。その間、堕神と戦うのは亜蓮ひとりだ。
「もちろん、動けるようになるまでは守るけど、完全に君が無防備になる。それでも……やって欲しい」
モモは胸に手を当て、ぎゅっと服を握った。リスクを知った今、恐怖は増した。でも、今はそれ以上に嬉しかった。
(……今、私じゃなきゃできないって言われた気がする)
モモは恐怖を振り切って亜蓮を見た。
「それでいいです。私がやります!」
「頼む」
その一言に、モモの胸に喜びが広がる。胸の奥の炎が溢れ、モモは笑みを浮かべてしっかりと頷いた。
だが、ふと疑問がよぎる。
「そういえば、なんで私は呼ばれなかったんでしょうね? 昔のこと思い出す機会ならあったのに……」
「記憶を過去のものとして処理できてると、効かないのかもしれない」
「そ、っか……」
そう呟きながら、モモの思考は別方向へ飛ぶ。
(……いや、ちょっと待って……。これから亜蓮さんと手、繋ぐんか?)
亜蓮の顔をバッ、と見上げると、亜蓮は僅かに動揺したように首を傾げた。
花緒のことを思うと、後ろめたい気持ちが湧いてくる。でもそんなこと言ってる場合じゃない!
「やります。今すぐ!!」
亜蓮が頷く。背後に迫る異形の気配が近い。もうすぐここは異形の波に呑まれる。
静かに膝を折り、亜蓮は住職と目を合わせた。
「何があっても、ここから動かないでください。子供達が戻った時、貴方が無事でないと意味がありませんから」
住職は腹を括ったのか、しっかりと頷いた。
「怖いでしょうが、どうか耐えてください」
その言葉に、住職は顔を青くしながら何度も頷いた。この場がもうすぐ地獄と化すると、彼も理解しているのだ。
すると、亜蓮が住職の耳元に何かを囁いた。住職の目が丸くなり、その瞳に僅かに光が戻る。住職の体の震えがおさまるのを、モモは驚いて見た。今、何を言ったんだろう。
「……必ず連れて戻ります」
亜蓮は立ち上がり、モモと向き合った。
「……モモ。捨て駒みたいな役割を任せて、ごめん」
「大丈夫です!」
モモは強く笑った。
「それに私、ちゃんと戻ってこられる自信があります!」
亜蓮の目が見開かれる。その手が差し出される前に、モモは亜蓮の手をしっかりと取った。
目を閉じ、思考を手放す。そして――心の奥に、ひとつの記憶が浮かび上がった。
* * *
あれは――中学の頃だ。
祭りの日、母が「一緒に行こうよ」と誘ってくれた。
けれど、あの時は友達との約束があった。
「ごめん、友達と行くから」
そこは車じゃないと行けない距離で、母は私を送り届けたあと、「じゃあ、ここで待ってるね」と、笑って近くのカフェに残った。何時間も待った末戻ってきた私を、母は笑顔で迎えてくれた。
優しかった。少し、恥ずかしかった。なのに、どうして「ありがとう」って、言えなかったんだろう。
「また明日、一緒に行こうよ」
そう言われたのに、「いいよ、行かない」なんて返してしまった。
……なんで、あんな言い方をしたんだろう。わかっていたくせに。その言葉が母を傷つけることくらい。寂しい思いをさせてしまうことくらい。
――会いたい。
――お母さんに、会いたい。
ーーーーーー
ーーー
ーー
「……会いたい……」
亜蓮の視界の端に、ぽたりと光る涙が落ちた。驚いた亜蓮が顔を上げる。
「ごめん……ごめん、お母さん……」
モモは震える声で、俯いたまま涙を溢れさせていた。
――ああ、そうだ。どうして、今まで気づかなかったんだ。
モモはあの日、迷いなく戦いに身を投じることを選んだ。千年京に残ることを躊躇いなく受け入れた。
――じゃあ……彼女の家族は?母親は?
今どこで、何をしている?
なぜ、モモは一度も「帰りたい」と言わなかった?
まるで――もう帰る場所がないみたいに。
――その時だった。
亜蓮の視界が裏返った。
――音が消え、風が止まる。
再び風が境内を吹き抜け、提灯の灯りがふらりと揺れた。次の瞬間には、モモと亜蓮の姿はそこにない。
「……!?」
住職が驚いて周囲を見回す。温い風が境内をすり抜けていく。まるで――誰かを連れ去ったかのように。




