第21話 「違和感、後の祭り」
人波も喧騒の熱気も引いていき、お夜の冷気が少しずつ境内に戻り始めている。
何事もなく終わればそれでいい。誰もがそう思いながら、祭りは静かに終わりに向かっていた。
「亜蓮さーん! こっちこっち〜!」
合流した千助の姿に、亜蓮と花緒は顔を引きらせた。両腕に屋台飯を山盛り抱えた千助が、鼻にまでたこ焼きソースを付けて手を振っている。
「いやー来てよかったっす! 俺もう、死んでもいいです! 最高の夜っす!」
「やめてくださいよー! まだ死なないでくださいね千助さん!」
モモも笑いながら、りんご飴を片手に持っている。
「うぇへへ、そーだよモモちゃ〜ん! また来年も一緒に行くんだもんねーっ?」
「はいっ! また一緒に!」
「きゃーーやったあああ!! 女の子とデートの約束ゲットおおお!! ありがとう世界! ありがとう人生! うおおおおおおビバラビダアアアアーーッッッ!!」
千助の叫びが人気の減った境内に響き渡る。花緒は耳を塞ぎたそうに眉間を顰めた。
「……こんな千助さん、初めて見ましたね」
「ああ……」
くるくる踊る千助を、亜蓮は遠い目で見つめる。数時間前、「絶対許さない」……などと呪いのようなメッセージを送ってきた人物と同一人物とは思えない。
亜蓮の視線が静まりゆく境内を見渡す。屋台が次々に片付けられていく光景は、まるで夢が醒めていくかのようだった。
「……だいぶ、人が減ってきたな」
ぽつりと呟いた亜蓮に、モモも周囲を見回す。
「ほんとですね。終盤になってから外の堕神も減ってきましたし、退魔師隊も撤収準備の雰囲気でしたよ! ……何か気になるんですか?」
「いや……この祭りを教えてくれた子、来てると思ったんだけど。結局姿を見なかったから」
そう言って亜蓮は再び境内を見やる。子供の声はほとんど聞こえない。時間も時間だし、流石にもう帰ったのか。
「すごい人混みでしたし、きっとすれ違ったのかも」
モモがそう言って微笑むと、亜蓮も頷こうとして——止まる。花緒が疲れたように灯籠に身を預け、目を閉じて息をついたのだ。
「大丈夫?」
低い声に、花緒がはっとして顔を上げた。その瞳に、一瞬だけ焦点が戻らない揺らぎがあった。
「すみません……。さっきから、集中できなくて……」
額に手を当てる花緒の様子は、ただの疲れとはどこか違っていた。心配になり花緒の顔色を伺う。結界が作用してるから瘴気汚染の可能性はまずない。流動性結界の消耗にしては早すぎる。
「人混みにやられた?」
「……そう、かもしれません。なんだか、ぼうっとして……」
花緒は言葉を吐くのも辛そうに目を伏せた。
何故か脳裏に引き出される懐かしい記憶。――月夜の帰り道「来年も、一緒に来てくれる?」と問う幼い主人に、「もちろんです」と返した自分。嬉しそうに握り返された手の温もりを思い出して、手がもがく。
(……感傷的に、なってるだけ……祭りなんて場所だし)
見かねた亜蓮が意を決して口を開く。
「花緒――」
「残ります。まだ帰りません」
亜蓮の言葉の続きを察知して、花緒はピシャリと言い切った。亜蓮がでも――と言いかけて、言葉を飲み込む。そんな二人を見比べて、モモが代わりに明るく声を張った。
「さ、そろそろお祭りも終わりですね! 何事もなくて本当によかったです! あとは退魔師隊に任せて、帰りましょう!」
「いえ……ですから……。私は結界の保持があるので、最後に……」
「えええ〜! もう終わり〜!? もっと遊びたかったのに〜! 俺帰りたくないよぉ〜!!」
千助の大声を背に、亜蓮の視線が静かに闇を見据える。
何もない。気配も、魔力も、残穢すらも。だがなんだ?この、既に絶望的な状況に置かれているような嫌な予感は。
まるで、既に詰みに入られているみたいな――。
* * *
その少し前。
交川大社・外苑――。
「白波くん、今日も札の運搬ありがと〜!」
弾んだ声に、青年が静かに振り返った。
女性退魔師達の黄色い目にも微動だにせず、無駄のない動作で一礼を返す。
「いえ。手が空いていましたので」
――白波 柊馬。
退魔師でありながら、祭り警備の雑用係として、今日も影で働いている。
うなじまで無造作に伸びた濃茶の髪は、額から掻き上げるように後頭部に一つに結ばれ、隊服は折り目一つなく着用している。
黙々と木箱を抱え札を配り歩く姿は、どこか時代錯誤な風格すら漂わせていた。
遠巻きに眺める女子退魔師達の視線が熱を帯びる。
「あの所作マジ武士っ……」
「なのに全然ドヤらない」
「戦国時代から転生してきたサムライ説……!」
そんな声も意に介さず、柊馬は木箱の角を慎重に確認してから、そっと地面へ下ろした。
――《退魔札》。
様々な術式が込められた札は、退魔師の主力武器だ。
魔力の浪費を抑え、瘴気による汚染のリスクを減らす。千年京の退魔師達のほとんどがこれを使って戦っており、補給は常に必要だった。
魔力を直接操れる異能者など、ほんの一握り。それでも、訓練を重ね、瘴気汚染のリスク管理さえ徹底すれば誰でも扱える。だからこそ、柊馬は妥協せず学びたかった。
(……なかなか終わらないな)
空になった木箱を積み上げ、柊馬は小さく息をついた。腕時計の針はまもなく零時を指すが、境内からはまだ笛と太鼓の音が響いている。それに、まだ帰りの人の流れも少ない。
結界外の堕神の数も減り、退魔師達には油断と疲労の色が滲みはじめていた。
(……あれは)
その時、視線の先に、見覚えのある退魔師がいた。退魔師隊の中でも、常に前線に立つ結界術師だ。柊馬は即座に歩を向け、駆け寄る。目の前に立つと、男は目線を泳がせた。
「あ、えっと……君は?」
柊馬は礼儀正しく頭を下げた。
「白波です。先日、結界術のご指南をお願いしました。ご検討いただけましたか?」
「あー……あの時の……。んー、ああー、うん。ごめんね〜?悪いけど他の人に頼んでくれない?最近忙しくて、教えてあげる暇ないや」
「……いえ。失礼いたしました」
柊馬は静かに頭を下げ身を引いた。男が去っていった、その背後に別の若手が現れ、愛想の良い調子で話しかける。遠巻きにではあるが会話の内容は聞こえてきた。
「先輩! 例の件、考えてくれましたか?」
「お、結界術のことな? お前になら教えてやるよ。その代わり霊石の件、頼んだぞ?」
「もちろんです! 交渉しておきます!」
軽い笑い声と共に、二人は去っていく。柊馬は黙ってそれを見送り、背を向けた。
(……俺には、“そういうやり方”がない)
「今の人、結界術師……?」
「やだ、あんな奴の張った結界ん中にいるとか無理なんだけど……」
背後で女子たちのひそひそ声が漏れる。だが、柊馬の耳にはもはや何も届かなかった。静かに、闇へと身を溶かすように歩き出す。
灯篭の明かりが届かない小川のほとりまでくると、柊馬は小さな石橋に手を添え、黒い川面を見つめた。
(俺は、組織で上手くやれない。空気も読めない。愛想も、立ち回りも……持ってない)
このままでは前線どころか、戦闘に出ることすらできない。
それでも……。
それでも、人を助ける術を、知りたい。守れる力が、欲しい。
結界術——それは人を守り、生かす術。
だから、何よりも真っ先に覚えたい術だった。
もっと多くの命を、傷つく前に救うために。
――その時、ふと頬を撫でる風に微かな違和感が混ざった。
「……?」
即座に顔を上げ、気の流れを読む。目が、水面の揺らぎに吸い寄せられる。
「――なんだ?」
ぽつりと呟き、跳ねるように小川の岸へ飛ぶ。じっと川面目を凝らした。すると、小川と共に流れる薄膜のような結界が、微かに煌めいているのが映った。
「これは――」
柊馬が息を呑む。――間違いない、結界だ。
(これが、結界……? 水流そのものを利用している……? 水場は結界が弱まりやすいから、自然の流れを壁に?)
柊馬の心臓が、静かに早鐘を打つ。
この結界術、国家退魔師隊の隊員のものじゃない。別の誰かだ。
目に見えるか見えないかの、限界まで薄められた魔力。それなのに、その設計は美しく美しかった。
「すごい……!」
柊馬の全身が熱くなる。
──誰かが、誰かを守っていた。
見えない場所で、静かに、確実に。
その意思が、結界を通して伝わってくる。透明な魔力に、柊馬の目が吸い込まれていく。
ーーもし、この人に教わることができたら……いや、違う。
この人に、教わりたい……!!
「おい、そこの雑用」
その時、背後から威圧的な声が飛んだ。
柊馬の背筋が、はっと伸びる。
振り返れば、欄干にもたれる白髪の男。顔の半分を美少女キャラクターのお面で隠し、チョコバナナを咥えている。
柊馬は即座に立ち上がった。
面で顔はわからない……が、髪の色や特徴からして棺屋中隊長だ。
ーー死刻のシノ。
退魔師隊内でも嫌われている、不遜で倫理観が欠如していると悪評が絶えない悪童だ。なんでも、身勝手な理由で何度か仲間を殺しかけたとか、殺してしまったとかなんとか……ら、
シノの背後には、青薔薇の小振袖を着た少女もいた。
こちらは見覚えがないが、戦闘員が身につける白フードをしていないところを見ると、様子を見にきた事務方か……。
(変な組み合わせだな……)
「何か異常は?」
無遠慮に問うシノに、柊馬は両足を揃える。
「ありません」
臆さず返事をする柊馬にシノは一瞬片眉を上げたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。
「――は、つまんね。結局なんもなしか〜。中もほとんど人残ってないし……帰るか」
柊馬の眉がぴくりと動いた。
「……人がはけた、のですか?」
「見りゃわかんだろ。屋台もたたんでんじゃん。目ぇ死んでんの?」
シノが鬱陶しそうに顔を顰める。
「おかしいです。そんなに人が帰った気配はありません」
空気が張りつめた。格下の生意気な反応に、シノの苛立ちが濃くなる。
「……なに、どういうこと?」
「来場者に対して、帰路についた人数が釣り合いません」
「は? お前それ、断言できる? 全部の帰路見てたわけでもねえだろ?」
「退魔札を配りながら、人の流れを見ていました。断言できます」
「……」
沈黙。
シノが柊馬を睨む。
そしてーーチッと舌打ちした。
「……おい、なこたん。多分、いるぞ。中に」
シノの手がプラスチックのお面に手をかけ、一思いに捲る。現れた童顔と黒い瞳に苛立ちが浮かんでいた。
後ろにいたひなこが戦慄する。
「えっ? でもそんな気配は――」
「結界の中に潜んでんだ。俺らが気づけないくらい奥にな」
シノがひなこにお面を投げやると、ひなこは慌ててそれを受け止めた。柊馬の目が見開かれる。
(敵はずっと、内側に……!?)
ひなこは感じ取れない敵に怖くなったのかオロオロしている。
「人の気配に紛れてた……ってこと?」
「かもね……」
シノはニヤリと興奮気味に笑っていた。
「なんだ……ちょっとは遊べそーじゃん。おい、行くぞ。なこたん」
「ま、待って、私そういうのわからないし……!」
シノが踵を返し、境内へと向かおうとする――その時。
「待ってください!」
鋭い声が響いた。柊馬が前に出る。
「俺にも行かせてください」
「るっせえな! 下っ端が出る幕ねーんだよ!」
「微細な変化を追うのなら、得意です。同行させてください」
間を置かない、真っ直ぐな声。その目は熱く、迷いも無く、ここで引く気も……一切ない。
この手の相手との会話も面倒と踏んだか、シノは鋭く舌打ちした。それに、レベルの低い奴なら勝手にいなくなるだけだ。
「……勝手にしろ。あとその目で見んな。暑苦しい」
「はい!」
柊馬の目が、静かに燃える。
躊躇なく岸を駆け上がり、先を行くシノの背中を追いかけた。
この選択が、運の巡り合わせが、柊馬の退魔師としての人生を――いや、人としての生き方を大きく変えることになろうとは、まだ思いもよらなかった。
* * *
ーー妙だ。人がいない。静かすぎる。
亜蓮は、花緒の様子に気を配りながらも、周囲の気配を鋭く探った。
人がまばらになった。当たり前のことに何故こんなにも胸がざわつく?確証が持てずにいた、その時。
「……う、っ……」
ハッと振り向くと、花緒が苦しげに膝をついた。眉間に皺を寄せ、何かに必死に耐えている。
「花緒、どうした……!?」
「おかしい、です……! さっきから……勝手に……昔の記憶が、思い出されて……!」
息を荒げながら絞り出すように言ったその目は、もはや焦点が合っていない。
(……精神攻撃……!?)
亜蓮が息を呑む。
「記憶に、意識が、引っ張られるみたいで……。無理やり見せられてるみたいに……! 体の……っ、感覚も……」
抵抗しきれないのか、花緒の言葉が手がかりを残す為のものに変わる。亜蓮が彼女の名を叫ぼうとした、その時。
「タケルーッ!! みんなぁーっ!!」
耳を裂くような叫びに、全員が振り向く。灯の間を駆け回る一人の住職の姿。すぐにモモが駆け出した。
「どうしたんですかっ!?」
もつれこんで転んだ住職が、差し出されたモモの手にすがるように言った。
「はぁ、はぁっ、い、いないんです! 子供達が、誰一人帰ってない……家にも、境内にも……どこにも、いないんです!」
いない?
亜蓮の中で予感が確信に変わった感覚。――その時。
「亜蓮さんッッ!!」
モモの悲鳴。はっと顔を上げると、モモが蒼白になって叫んだ。
「千助さんと花緒さんはどこですか!!?」
「……えっ」
瞬間、亜蓮の背筋が凍った。
「――っ!」
花緒と千助が、いない。まるで最初から存在していなかったみたいに、音もなく、影もなく。
「やられた……!!」
咄嗟に周囲を見渡す。境内は空っぽになっていた。さっきまで確かに存在していた祭りの景色が、影も形もなく、ない。
「亜蓮さん、これ……どうなってるんですか……!? 誰もいないですよ!?」
混乱するモモが、涙目になりながら住職を支える。
屋台の列が消えていた。灯りも、賑わいも、群衆の気配も——全てが失われていた。
残っているのは、赤く灯る提灯の列だけ。暗闇の中で揺らめき、まるで警告灯のように亜蓮たちの顔を赤黒く照らし出す。ここが、さっきまでの世界とは違うと告げるように。
気づくべきだった。見えていたはずの空白に。
もっと警戒すべきだった……。自分達が、神の領域にいるということを。
「帰ったわけじゃ、ないですよね……!?」
「……あるかもしれないとは聞いていたが、実際に体験するのは初めてだ……」
魔力探知が通じない、神性に近い“現象”。
人が忽然と姿を消し、そして、その消失の瞬間を誰も認識することができない。
この現象を言葉にするなら、ただ一つ。
――『神隠し』だ。




