第24話 トリガーを引く
――ハッ。
ぴたりと足を止めたのは、ひなこのすぐ後ろを歩いていた柊馬だった。
空気の揺らぎ。
まるで肌の奥で、結界の一端が裂けるような――そんな異質な感覚が走った。
(今……何かが変わった)
そう思った瞬間、視界が一変する。
「……は、え!?」
ひなこが小さく声を上げた。
祭りの灯りがすべて掻き消え、世界が唐突に、闇一色に染まった。
空気が重い。
鼓膜を指で押さえられたみたいな、圧迫される静けさ。
「なんだ……?」
シノが辺りを見回す。
その時だ。
遠くから、甲高い悲鳴が聞こえた。
全員が後ろを振り返る。
地を蹴る音。
誰かが全力で走ってくる。
「たすけてーッ!!」
悲鳴と共に現れたのは、必死の形相の真珠。
そのすぐ後ろには剛健が続き、さらにその背後から、地を這うように無数の異形たちが追いかけてくる。
「……チッ、ババアが」
シノが舌打ちし、隣の柊馬に顎をしゃくった。
「おい雑用!出番だ!」
「――《防壁・雷結》!!」
柊馬は数枚の退魔札を取り出し、前へと放つ。
札は矢のように飛び、真珠と剛健の背後に光の障壁を形成した。
直後、異形の群れが結界に突撃する。
障壁に触れた瞬間、バチバチと火花を散らしながら弾き飛ばされていく。
「た、助かった〜……ナイスぅ〜……!」
真珠はその場に膝をつき、息を切らせながらも笑顔で親指を立てた。
「いやー二人じゃ捌ききれなくてね〜。ほんとに誰もいないんだもん!逃げてきちゃった!」
「真珠てめー!研究やめて百鬼夜行でも始めたのかよッ!」
だが、そのやりとりの間にも、光の結界に亀裂が走る音が響いた。
次の瞬間、異形の群れが堰を切ったように押し寄せ、結界を突き破ってなだれ込んでくる。
「くっ……!」
剛健が即座に前へと出て、拳に魔力を集中させる。
「"破"ッ!!」
轟音を伴う一撃で、突進してきた異形の群れが粉砕された。
「うっそぉ!!?クガ君やるぅ!」
「いいから走って!!」
言葉を交わす間もなく、四人と一人は本殿の方角へと駆け出す。
だが――
「……い……!?」
ひなこの声が震えた。
本殿前。
つい先ほどまで人がまばらに残っていたはずの空間が、跡形もなく、誰一人いなくなっていた。
「や、屋台も……誰も……いない……!」
空っぽになった境内。
警告灯のように並ぶ赤提灯。
まるで異空間に取り残されたような感覚。
そして、また異形の波が押し寄せる。
「囲まれたな……!」
退魔師たちは即座に戦闘態勢に移る。
シノが札を鋭く弾いた。
「はぁ、めんどくさっ!!」
立て続けに雷鳴が境内を揺るがす。
眩い閃光が異形たちを駆け巡り、次々に弾け飛ばしていく。
「こりゃアレだな。まるで――」
「神隠しにでも遭ったみたいですね」
「おいコラクソ雑魚!俺のセリフ取んな!!」
シノが怒鳴ったが、柊馬は淡々と退魔札を投げ続ける。
「状況を整理するよ!」
真珠が声を張る。
その声音に、全員の意識が引き寄せられた。
「この場に“残されている”のは我々。神隠しに遭ったのは私たちではなく、境内にいた客たちだ」
「つ、つまり……!?」
剛健が真珠へ問いかける。
「……深夜残業、決定ってこと」
真珠は笑いながら札を放ち、踵を返す。
白い隊服が闇に翻った。
「ーーこれより、現地に残った我々を臨時小隊とし、堕神の討伐および民間人の救助に当たります!
指揮は私、神尾 真珠!副隊は、棺屋 シノ!」
「おい!勝手に仕切んな!!」
シノは鋭く札を投げながら、怒鳴る。
「目標は現在、固有の結界内に潜伏しているとみられ、魔力探知による位置特定は困難!
目標敵堕神を《アトノマツリ》、現在進行中の現象を《神隠し》と仮称し、対処します!」
場が引き締まり、全員の視線が周囲を鋭く捉える。
真珠はひなこに目を向けた。
「君は事務員だね?我々から離れないように」
「る、瑠璃染ひなこです……!足手纏いになり申し訳ありません……!」
ひなこは恐怖に震えながらも、陣形の中央に身を縮めた。
異形の群れが退魔師たちを包囲する。
札が飛び、雷光が閃き、魔力の奔流が空間を引き裂く。
シノが背後の真珠を振り返る。
「で、どうする!? 敵を炙り出す方法、あるのかよ!」
「ああ。神隠しは予測不能の偶発的現象とされているが、実際には法則性がある。パターンさえ抑えれば、こちらから誘発することも可能だ。私の仮説が正しければ――」
「か、神尾さん!今は簡潔にお願いします!」
剛健が叫び、言葉を割る。
「よろしい、じゃあ要点だけ」
真珠が紙片をひとつ指で弾き、異形の進行方向へ放つ。
炸裂とともに空間が震え、敵の足が一瞬止まった。
「条件は三つあると思われる」
指を三本、すっと立てて真珠は言う。
「ひとつ、神域内にいること。これはすでにクリア」
指が二本に変わる。
「ふたつ、神に“気に入られる”こと。こればかりは好みの問題で予測困難。だが、これをこじ開ける“鍵”が、最後の条件にある」
指が再び三を示した。
「三つ目……“救済願望”もしくは“没入感情”」
真珠の口元が妖しく弧を描いた。
「とてもセンチメンタルで、ノスタルジックな、ね。
たとえば今のこの場なら――『祭りが終わらなければいい』『帰りたくない』、といった具合だ」
「なるほど、“願い”ですか」
柊馬は素早く札を撒きながら、納得して呟く。
「そして、物理的接触と集団遷移。条件を満たすのは一人で構わない」
「つまり、発動させる人間の体のどこかに捕まっていれば、全員を引き込めるってことか?」
シノの問いに、真珠が指を鳴らす。
「その通り! 誰か一人が心から“神を受け入れる”ことで、我々観測者はそれに便乗できる!」
真珠が確信を深めるように笑う。
「そして確率を上げる為の"境界越えの法則"だがーー、"女性、子供、人外は境界を跨ぎやすい"」
くるりと振り返り、真珠が呼びかける。
「えーと、ルリゾメ君!?」
「え、えっ!!? 私……!?」
急に名を呼ばれ、ひなこは驚きと不安で狼狽える。
「偏見と希望的観測で申し訳ないけど……この場で適任なのは君だと思う。やってくれるか!?」
一瞬、ひなこの顔にプレッシャーの影が走る。
「……感情のトリガーを引くだけ。君の“願い”が道を開く」
「でも、もし失敗したら……!」
「バカ!! 成功するまで続けんだよ!!」
シノが怒鳴る。
「とはいえ、この状況でセンチメンタルになるのは無理がありますよ……!」
剛健の指摘に、真珠が頷く。
「できるまで続ける。その間、私たちが持ち堪える」
だが――剛健の懸念はもっともだ。
ひなこの周囲は、今や戦場と化している。
命の危機がすぐそこにある中で、心を沈めろという方が酷な話だ。
「だが、悠長なことも言っていられない!
結界が破れた今、堕神がこの混乱に乗じて外へ逃げれば、敵の座標は半永久的に見失われる!そうなれば中の人間はまず助からない!」
「プ、プレッシャーかけないでください!」
ひなこが叫ぶ。
それでも、両手を胸に当てる。
「で、でも……今手が空いてるのは私だけ……!私が一番確率が高い……!私がやる、私がやるんだ……!」
ひなこは目をぎゅっと閉じた。
「……お願い。もう少しだけ、このままで……この時間が、終わらないで……!」
――静寂。
時間が凍りついたような沈黙が落ちる。
しん………。
ーーバッと顔を上げ、ひなこが叫んだ。
「やっぱり無理!!!」
「くっ、仕方がないっ……!野郎ども、出番だ!!」
だが、真珠の号令に、誰もが露骨に視線を逸らした。
「ちょ、おいおい君ら健全な男子でしょ!?甘酸っぱい初恋の一つや、青春の恥ずかしい妄想のひとつやふたつくらい――!」
「神尾さん!全方位にセクハラです!!」
「余計なお世話だ!!」
赤面する剛健とシノが同時に怒鳴る。
イラついたシノが剛健に食ってかかる。
「あークソ!おいデカブツ!てめぇがやれ!」
「じ、自分ですか……!?う、うちは親父が厳しかったし……こ、こんな見た目だから、この歳(36歳)まで彼女も、いたことが……」
「……くそ、童貞か。おい雑用!てめぇはどうなんだ!」
柊馬の札を撒く手が止まる。
「学校の女子“たち”と祭りに行ったことはありますが、人数が多すぎて誰がいたか思い出せません。あと、全員に何か奢ってお年玉が尽きた思い出しか……」
「ヒュー! 君がバチェラーかーい!?」
「やっぱてめぇは一回死んどけ!!」
シノの怒声が響いたその瞬間ーー。
……ふっと。
空気が冷えた。
異形の波が影のように裂け、冷たい気配が流れ込む。
後方から、異様に頭蓋の伸びた、枯れ枝のような手足を持つ者が現れる。
ただの妖ではない――その気配が全員に伝わった。
真珠の背筋が凍る。
「くっ、《ぬらりひょん》ーー"総大将"か……!」
ぬらりひょんが枯れ枝のような指を上げる。
その瞬間、異形たちに統率が生まれ、塊になって突進してきた。
「――ひぃっ!」
ひなこが青ざめ、仲間たちが一斉に札を投げる。
「「「「《防壁・雷結》!!」」」」
防壁が展開され、押し寄せる異形を焼き払う。
(揃ったーー……!!)
柊馬の背筋が、興奮でぞくりと震えた。
だが、その奥のぬらりひょんは、赤い眼を細め嗤っている。
「このままじゃ……アトノマツリどころじゃねぇ……!」
シノの声が苛立つ。
ひなこは皆の背後で震えていた。
感傷的になるどころか、目の前の光景が恐怖で思考することすらままっていない。
「くっそ……なこたんっ!!」
「む、無理です……!」
ひなこの声はかすれている。
真珠も声を張り上げる。
「恋愛感情に囚われなくていい! 家族でも、友人でも、大切な人との記憶を!」
「無理なものは無理なんです!!」
足が震え、ひなこはその場に崩れ落ちる。
「友達なんかいない……家族も私のことなんかどうでもいいって顔してる……!あんなやつら……全員死ねとしか思えない……!」
「いや、それでいい!!」
「ーー!」
真珠の声が、鋭くも優しく届いた。
「他者への憎悪や自己嫌悪――それもまた“救済願望”の形だ!君はそのままでいい。頼んだ!」
真珠の真剣な眼差しが、ひなこを射抜く。
その一瞬、ひなこの心に、しんとした闇が降りた。
ーーあの人たちを、恨んでもいい……?
震えが、止まる。
ひなこは静かに目を閉じた。
それを見届けて、真珠が叫ぶ。
「合図と同時に防壁を張る! 全員、ルリゾメくんのどこかに触れろ!
三、二、一 ――!」
その声と同時に、全員が防壁札を放った。
防壁が展開し、空間を囲う。
バリバリと音が鳴り、異形の足が止まる。
そして、中心で目を閉じたひなこに、皆が手を伸ばす。
「――来るぞ!」
シノの声を最後に、世界が裏返った。
音も重力も、色彩も――すべてが一瞬、停止する。
次の瞬間、防壁が砕け散った。
中心で異形たちがぶつかり合う。
だが、そこにはもう、誰の姿もなかった。
お読みいただきありがとうございます。
いかがでしたでしょうか〜、国家退魔師隊サイドのメインキャスト達も出揃いました。
氷室は謹慎中ですが。
次回の本編更新は7月上旬見込みです。
その前に国家退魔師隊サイドのスピンオフ(短編)が仕上がるかもしれませんし、テンション次第です…笑