第0話・下 あなたのいない世界の、始まり
第0話・下 あなたのいない世界の、始まり
花緒は車内を駆け回っていた。
気分が悪くなった乗客が次々と席に崩れ落ち、呻き声が絶え間なく響く。
門から現れた巨人が町を侵食し始めた瞬間から、空気は粘り気を帯び、重たく肌にまとわりつく異様な力で満たされていた。
「しっかり……」
近くの乗客を支えながら、花緒は車窓の外に視線を送った。
無数の異形が、屋敷の方角へと殺到している。
歯を食いしばりながら、花緒は苛立ちを押し殺した。
今は目の前の人々を助けるしかないーー。
それが、彼女に課せられた使命だとわかっていた。
しかし、その時だった。
突然、空気が音もなく張り詰めた。
鏡面の水を思わせる静寂。
次の瞬間、大地を揺るがす見えない波が全身を貫き、花緒は体が宙に浮く感覚に襲われた。
ーー幻覚のような体験に花緒の動きが止まる。
「今のは……」
花緒が、呆然と辺りを見渡した時だった。
「おい、見ろ!」
乗客の男が窓の向こうを指差し、花緒はハッと顔を上げた。
流れる景色の中、町を覆うように降りてくる巨大な半透明のドームが見えた。
黒い瘴気がものすごい勢いでドームに吸収されていく。
霞がかったすりガラスのようなそのドームは、黒い巨人の影、門や瘴気、町全体を一瞬で覆い隠し、外界との繋がりを完全に断ち切った。
「結界……なのか……?」
慈雨月の呟きが響く中、車内の空気が急に変わった。
重圧が消え去り、肌を刺すようだった気配も途絶えている。
「慈雨月様っ、お加減は……!?」
青白かった慈雨月の顔がわずかに血色を取り戻し、弱々しく口を開いた。
「急に楽になった……。何が、どうなった?」
「……私は何もしていません」
そう言いながら、花緒の爪は手のひらに食い込んでいた。
窓の外を見上げると、霞の向こうへと完全に消えた町がある。
(一体誰が、あんな超規模な結界を……)
花緒は無意識に手を広げた。
空気を感じ取ろうとするが、何もない。
門から溢れていた魔力も、異形の気配も、すべて断ち切られている。
「やっぱり、何も感じない……」
握りしめた拳が震えた。
(締め出された……あの町から!!)
悔しさと焦りが混ざり合い、怒りとなって花緒の胸を突き上げる。
目の前で確かに、世界が切り離された。
屋敷も、亜蓮も、雪乃も――みんな、結界の向こう側。
(一体誰が、何のために……!)
その時、不意に慈雨月の胸ポケットでスマホが震えた。
「こんな時に……」
呟きながら、震える手で着信に応答する慈雨月。
だが、次の瞬間、彼の表情が凍りついた。
「…………兄、が?」
「――っ!?」
花緒は弾かれたように振り返った。
その電話は、病床にあった亜蓮の父が急逝したことを告げる報せだった。
* * *
――屋敷は、地獄そのものだった。
焼けた柱、無惨に崩れた壁、床一面を覆う血痕。
使用人や術師達の亡骸が無惨に横たわり、煙と炎が視界を赤く染める。
雪乃は次々と襲いかかってくる化け物達を錫杖で叩き伏せ、亜蓮の手を引き屋敷の縁側を土足で駆け抜けていく。
「お母さんを助けるんじゃないの!?」
「だめ!先に、この錫杖を、祠池に返すの!」
「でもそれじゃ母さんが!!」
「みんなを助けるにはこれしかない!この錫杖に込められた力と龍脈を使えば、土地全体を浄化できるはず!そうすれば――」
瞬間、雪乃の体が大きな手に薙ぎ払われた。
「――ッ゛!!」
繋いでいた手がちぎれ、亜蓮は障子を突き破り和室へ投げ出される。
「亜蓮っ!」
雪乃の体に鋭い痛みが走る。
腕に突き刺さった木片を一瞥し、雪乃は痛みを押し込めて立ち上がった。
もがき苦しむ亜蓮の背後に巨大な鬼の影が迫る。
「こ、のおおおおおおおおお!!!」
雪乃は腕の木片を握りしめる。
その手から溢れた魔力が木片を眩い銀色に輝かせる。
それを引き抜き切ぎざまに投げ放つと、鋭い流星となって化け物の体を貫き、塵に還した。
「うっ……」
雪乃が膝をつき、強打した脇腹を押さえながら、立ち上がろうとする。
「お姉ちゃん……っ、捕まって……!」
雪乃は無言で亜蓮の肩に捕まった。
二人は体を支え合いながら、崩れかけた廊下を抜けていく。
「――っ!」
だが、中庭に出た瞬間、二人は動けなくなった。
祠池を覆う不気味な紫色の光。
その中心に鎮座する、異形の巨影。
土と泥に木々が絡み合う巨大な体。
黒ずんだ中編縄。
頭らしきところが蛇のように鎌首をもたげ、仮面に彫られた黒い切れ長の目と口が、笑みながらこちらを向いた。
その時、雪乃の目が泥の中に光る黄金色を捉えた。
「母様!!!」
泥に埋まりかけた芽覚が顔を上げる。
芽覚は声を振り絞った。
「雪乃、亜蓮ッ、逃げなさい!ここはもう――」
「お母さん!!」
亜蓮の悲鳴を遮り、轟音と共に燃え盛る木が倒れてくる。
雪乃が鋭く錫杖を構えた。
「私が倒す!」
「だめよ!この方はここの土地神、殺しちゃいけない!!」
「でも!」
呻き声と共に芽覚の体がまた泥に呑まれる。
だが、泥に塗れながらもその顔にはわずかに微笑みが残っていた。
「あなた達は、生き残りなさい!」
「お母さんッ!!」
「亜蓮だめ!!」
亜蓮が飛び出そうとし、雪乃は咄嗟に両腕で抱き止めた。
「でもお母さん! お母さんがっ!」
嗚咽混じりに亜蓮がもがく。
雪乃の視界は涙で歪みながらも、腕は決して亜蓮を抱きしめて放さない。
芽覚は二人を見つめ、優しく微笑んだ。
まるで、これが最後の別れだと悟っているかのように。
「雪乃、亜蓮を頼んだわよ――」
泥が芽覚を飲み込み始める。
優しい黄金色が徐々に暗く沈んでいった。
亜蓮の絶叫が、燃え盛る屋敷の中で響き渡る。
「お母さぁぁあああんーー!!」
*
雪乃は亜蓮を屋敷の奥へと連れ、まだ被害を受けていない子供部屋に逃げ込んだ。
狭く、暗い部屋の中、外の喧騒が嘘のように遠く感じる。ここだけ別の世界にいるみたいに。
「母様……っ」
雪乃は涙を堪えながら、震える亜蓮を抱きしめた。
龍脈が使えない。
何か、手を考えないと――
このままじゃ、みんなやられてしまう……!
その時、亜蓮の小さな手が雪乃の肩の怪我に触れた。
「あ、れん……?」
雪乃は最初、亜蓮が何をしたいのかわからなかった。
亜蓮は嗚咽をこらえながら、取り出した小さなハンカチを、雪乃の肩に巻きつけた。
手が震え、結び目は不格好になる。
巻かれたハンカチが赤く染まるのを見ると、亜蓮は悔しそうに声を殺して泣いた。
かわるがわる、嗚咽を堪えながら、手の甲で溢れる涙を拭う。
ただ怯え、打ちのめされて、恐怖に押しつぶされそうなだけの、小さな弟。
――この子に戦う力はない。
そう思い出した瞬間、雪乃の中で何かが崩れた。
剥き出しになった心に、ひとつだけ浮かび上がった
のは――絶望。
今これから、私の命も、この子の命も、
無惨に、無意味に終わるかもしれない。
「……ぁ」
自分でも驚くほど、震える声が出た。
思わず、雪乃は力いっぱい亜蓮を抱きしめる。
励ますためじゃない。自分が壊れてしまわないためだった。
亜蓮が驚いて目を丸くする気配がする。
あたたかい。
小さな鼓動と息遣いが伝わってくる。
まだこの子が生きている。
その事実が、こんなにも残酷で、怖い。
「お姉ちゃん……、今が、その時なんだよね……」
その言葉に、雪乃はハッと息を呑んだ。
「これが、僕達が、生きてきた意味なんだよね……?今……僕達が、やらなきゃいけないことなんだよね……!?」
腕の中の亜蓮が、震えたまま顔を上げる。
その目に映る、自分と同じ、絶望の色。
「二人でなら、大丈夫だよね……!?」
亜蓮の目から、涙が溢れる。
自分より、ずっとずっと無力なはずの亜蓮が、
使命感だけで立ちあがろうとしていた。
――その姿が、決定打だった。
全ての思考が掻き消える?
――無理だ。
――できない。
沈黙する姉に、亜蓮が不安の色を濃くする。
「お姉ちゃーー?」
――バンッ!!
一瞬だった。
亜蓮が言い終えぬ間に、雪乃の手が何かを亜蓮の胸元に押し付ける。
そしてそのまま、亜蓮を和箪笥の中に叩き込んだ。
亜蓮の手の中に収まっていたのは――
あの、錫杖。
驚きで固まる亜蓮をよそに、雪乃は手早く箪笥の扉を閉める。
手近にあった木刀で外側から栓をした。
「お姉ちゃんっ!!なんで!?なんでッッ!!?」
小さな拳が扉を打ち鳴らす。
雪乃の耳に、それが反響する。
(終わった。何もかも)
雪乃の膝から力が抜ける。
覚悟とか、決意とか、
これまで積み重ねてきた経験や、生きてきた全て。
強くあろうとした自分自身が、何もかも意味をなさなくなった。
「おかしいな……私……もっと強かったと、思ったのに……」
呟いて、空っぽの両掌を広げる。
…………
――いや、違う。
これでいいんだ。
雪乃は箪笥の扉に手を当てた。
私の力と思いがこの子の命を繋ぐ。
それだけが、今のこの絶望的な状況で、
私という人間が生きた輪郭を留め、繋いでくれる。
この子は――私が生き残らせる。
「なんだ私……意外と、愛情とかあるんじゃん……」
雪乃は自虐するように力無く笑った。
そっと額を扉に当て、祈るように囁く。
――ありがとう。
最後の最後に納得できた。
「亜蓮ありがとう。大好きだよ」
亜蓮が息を呑む。
扉の向こうで、雪乃の瞳は信念に燃え輝いた。
「生きて。あんたの"その時"のために」
扉越しに叫ぶ弟の声を背に、雪乃はその場から離れる。
外には、無数の化物が蠢いている。
夜の闇に包まれたその中で、雪乃が構えた日本刀の刀身が眩い銀色に輝く。
不思議だ。
これから死ぬのに、実感がない。
恐怖も、使命感もない。
ただ、全てをやりきった充足感だけが胸を満たしている。
――私の意思は、あの子が継いでくれるから。
「なんかすごく――いい気分だ」
雪乃は笑った。
襲いかかる無数の化け物。
だが、彼女の眼差しは一瞬たりとも揺るがなかった。
――この命は、君の“その時”のために。
私の終わり。
君の始まり。
そう思えば、この痛みも、きっと。
焼けるような空の下で、刃が銀色の閃光を放つ。
雪乃の叫びが空気を震わせ、夜闇を切り裂いていった。
* * *
――夜明け。
火は消え、死の静寂に包まれる屋敷に、一人の女が足を踏み入れる。
花緒だ。
木材や生き物の焼けた匂いが漂う中、花緒は足早に屋敷を駆け回る。
(お願い……どうか、無事でいて……!!)
焦る気持ちをなんとか堪え、屋敷中を走る……その時だった。
花緒が何かに気づき、祠池に駆け寄る。
そこにあったのは、池の岸で横たわる芽覚の遺体だった。
「芽覚様……!こんな……っ!」
花緒の声が震える。
焦げた空気の中、彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「……っ、はぁ」
目元を拭い、涙を堪えて再び立ち上がる。
――まだ、諦めてはいけない。
屋敷の奥へと進むと、異様な静けさが漂う空間にたどり着いた。
亜蓮の子供部屋だ。
「……」
音を立てないように扉を開け、数歩進み出る。
――誰もいない。
だが、無人の空間に、彼女はかすかな気配を感じていた。
花緒の視線が、部屋の隅の刀掛けで止まる。
(刀剣がない……)
そして、惹きつけられるように目に入った和箪笥にはーー殴り書きのような血文字。
『あれんを たのんだ』
取手には、外側から木刀で栓がしてある。
(まさか――!)
「亜蓮様っ!!」
震える手で扉を開け放つ。
だが――そこには何もなかった。
ただ、冷たい空気と異質な闇だけが、彼女の目の前に広がっていた。
だだ一つ……小さな子供たった一人だけが座り込める、小さな空間を残して。
「亜蓮、様……」
最後の希望が消え、花緒の手が呆然と滑り落ちた。
* * *
暗闇の中、亜蓮は冷たい水に沈んでいく。
凍えるような闇が彼の身体を包み、心臓すら締め付ける。
閉じた瞼の裏に浮かぶ姉の姿。
手の中に残された、希望。
――この世界では強くたって、意味がない
水の底へと沈む少年の涙が、光の粒となって宙に浮かぶ。
――でも……力がなければ……何も守れない
亜蓮が目を閉じる。
両手から力が抜け、
冷たい暗闇に――沈んでいった。
お読みいただきありがとうございます。
過去の話は、ここまで。