第3話 「行ってはいけない」
亜蓮は、屋敷が見下ろせる裏山の崖の上からその悪夢を目撃した。
最初に感じたのは、大地の奥底から響くような低い振動だった。生ぬるい風が吹き荒れ、木々が狂ったようにざわめいている。
「なに、あれ……」
空を覆い尽くすような赤黒い門。まるでこの地上のすべてを否定するかのように、静かな死の気配を纏って宙に浮かんでいた。
後ろで雪乃が短く呟く。
「……逃げた方がいい」
その時、門が音もなく開き始めた。赤い光が広がっていく。まるで、地獄の夜明けのような――
「走ってッ!!」
――亜蓮がハッ!と我に返る。姉に腕を引かれ、亜蓮の体は条件反射のように動き出した。
風を裂くように山道を駆け下りる。
振り返っちゃだめだ!今は走れ!走らないと!わかってるのに、見えないことが恐怖を煽る。
だが次の瞬間、視界が真紅に染まった。
「出てくる!」
雪乃が叫ぶ。門の向こうから、質量を持った巨大な影法師がゆっくりと頭をもたげながら現れた。
流れる木々の隙間に、巨人の黒影がちらつく。そのあまりの巨大さに、どこが頭でどこが体かもわからない。
圧迫感が耳を覆う。胸が張り裂けそうに痛い。
――ガコオオオオオン!!!
突如、行く手の祠が轟音とともに砕け散り、中から四つん這いの黒い化け物が飛び出してきた。
「!!」
赤い両目が、ぎょろりとこちらを向く。常識を逸した動きで、狂ったように、亜蓮達へと迫ってきた。
「お姉ちゃんッ!」
「このッ――!!」
亜蓮の叫びを遮るように、雪乃が錫杖を振り上げた。 殴った瞬間に鈴の澄んだ音が響き、化け物は塵のように消える。
「急いで!」
雪乃に再び腕を引かれ、亜蓮は走る。あれが何か考える余裕などない。ただあの祠には、この道を守る道祖神がいたはずだった、その事実が亜蓮をますます混乱させる。
走り続ける二人はいつの間にか裏山の茂みを抜け、町へと飛び出していた。真っ赤に染まった視界と熱風に、二人は思わず立ち止まる。町が、焼けているのだ。
「酷い……!」
「お姉ちゃんあれ……!」
亜蓮の視界が何かを捉えた。道に倒れる一人の男の影が、赤い光に浮かび上がっている。――屋敷の術師だ。
「――っ!」
雪乃が男に駆け出すが、亜蓮の足はその場に張り付いて動けなくなった。勝気な姉と、一番よく張り合ってくれていた若い男だった。
「しっかりしろ! 何があった!?」
抱き起こそうとした雪乃の手をぬるりとした熱が覆った。――血だ。雪乃と亜蓮の表情が凍りつく。
男の周りには、あまりにもたくさんの血が広がっていた。燃えさかる炎の赤が、それをさらに黒く染めていた。亜蓮は言葉を失い、震えながら立っていることしかできない。
「……お、逃げ、くださ……、屋敷、は、もう……」
「喋るな! 今救急車を……!」
ウオオオオオオ――――――……!!!
けたたましいサイレンの音が響き渡る。二人は思わず視線を跳ね上げた。真っ赤に染まる空と、ものすごい速さで流れる黒い雲。世界全体が、まるで「何もかも手遅れだ」と嘲笑っているかのようだった。
「じき、けっか……閉じ……早く……」
「駄目だ! しゃべるな死ぬぞ!!」
「…………」
男は震える瞼をこらえながら、雪乃の手の中にある錫杖を見つめた。灯火の消えかけた目の奥に、かすかな希望と安堵の光が浮かぶ。
「あなた…が……それ、を…………………」
男の唇から言葉が絶え、世界から音が消えた。頭が眩むような耳鳴り後、再び低い風鳴りが戻ってくる。雪乃の手の中で、男はその目の光を完全に失っていた。
「お姉ちゃん……」
亜蓮が服の裾を引いた。雪乃は亜蓮が指差す方向を呆然と見上げる。
指差す方向――屋敷のある方角の空は、真っ黒な渦に覆われていた。助けを求める悲鳴と断末魔が、荒れ狂う風に乗って微かに届いてくる。
虚ろに、雪乃の視線が錫杖に落ちる。
その時――雪乃の中で全てが繋がった。屋敷、襲撃、術師の存在、受け継がれてきた力。何故、この錫杖はあの屋敷に祀られていたのか。私達は何のために在ったのか。
“いつかくるその時のために――”
「――私のせいだ……」
「お姉ちゃん……?」
亜蓮は、雪乃の体が震えていることに気づいた。
「私のせいだ……!!」
瞳の奥が闇に染まりかけた刹那、雪乃は断ち切るように顔を上げた。雪乃の目に再び、強い使命感と正義感の光が宿る。
「行くよ、亜蓮。みんなを助けるよ!」
「でも……」
雪乃は別人のように凛と立ち上がった。だが、男の「逃げろ」という言葉が亜蓮の耳から離れてくれない。それなのに、屋敷を見捨てて逃げることもできない。
涙を浮かべたまま足に力が入らない亜蓮の両肩に、雪乃は優しく手を置く。
「……大丈夫。お姉ちゃんのそばにいて。そうすれば絶対安全だから。私達で、お母様とみんなを助けるよ」
雪乃の温かい手が、亜蓮の両手をしっかりと包む。
「覚悟を決めるんだ。私達は……華上の術師なんだから……!」
奮い立たせるように、手に力を込める。
「――今が、"その時"なんだから……!」
その言葉に、亜蓮の胸に不思議と勇気が湧いてきた。目にいっぱいの涙を溜めながら頷く。
「うん……!」
亜蓮が涙を拭う。二人は男の体を木のそばに横たえると、少しの間だけ静かに両手を合わせた。
亜蓮が、手を合わせる姉の横顔を盗み見る。本当に逃げなくていいのだろうか?あの男は、自分達に逃げろと言うためだけにここまで来たのではないか?
……いや、きっとこれが正解だ。姉の表情から溢れる覚悟が、そう安心と確信を与えてくれた。自分の命の惜しさなど消えるくらいに。
「行こう」
雪乃が力強く亜蓮の手を引いた。再び走り出した亜蓮の視界の端に、一瞬だけ男の死体がちらつく。
もう動かないはずの男の顔が、こちらを向いていた。その姿は、物言わぬ体になっても二人を引き止めようとしているみたいだった。




