第18話 「式神契約」
――澄んだ小川は夜に染まり、黒の光沢を帯びながら、せせらぎを静かに流している。
朱塗りの橋の真ん中で、花緒は指輪を指先につまみ見つめていた。銀色の婚約指輪が、月明かりに照らされて微かに光る。
誰もいない川辺に、虫の声だけがやけに大きく響く。
(――捨てるなら、きっと今だ)
躊躇いながらも決断しようとしていたその時、不意に腰のスマホが震えた。
「っ!?」
――『慈雨月様』
どきりと心臓が跳ねた。慌てて指輪をポケットに突っ込み、通話ボタンを押す。
「……はい」
『やあ。今、良かったかな?』
いつもの調子のいい声に、花緒は気づかれないよう、そっと息をつく。
「巡回中です。それと、夜間は電話しないようにとお伝えしていたはずですが」
『はは、悪かったよ。こっちも急ぎだったんだ。で、頼まれた件なんだけど……』
「こちらの希望はお伝えしました。あとはお任せします。切りますよ?」
『あ!? おい、まだちょっとくらい話――』
よくわからない苛立ちに任せて容赦なく通話を切る。はあ……と、胸を押し潰すような重いため息が漏れた。
ポケットの指輪に嫌でも意識が引っ張られる。完全に、捨て損ねた。
(なんか……気が削がれた……)
その時、またバイブ音。思わずイラっとして画面を見るが、表示されていた『亜蓮様』の名前にどきっと胸が跳ねた。背筋を伸ばし、通話ボタンを押す。
「はい」
恥ずかしくなるくらい、自分でも僅かに高い声が出た。だが。
『モモと千助が交戦状態に入った』
淡々とした声に、花緒はハッとなり、すぐに表情が引き締まった。
『二人の魔力も消えてる。多分、堕神の結界に閉じ込められた』
亜蓮の声の後ろで風の音が聞こえた。恐らく、高所から二人の気配を探っているのだろう。
「向かいますか?」
『いや、御之が合流したみたいだ。僕達はこのまま予定を進めよう』
「かしこまりました」
『……何かあったら呼んで』
不意打ちの優しい声に、ぎゅっと花緒の胸が甘く痛んだ。それが従者への気遣いだとわかっていても……。
「……ありがとうございます」
『……切るよ』
プツリと通話が切れた。止まっていた呼吸が戻り、花緒は大きく息を吐く。
「はぁ……もう……」
がっくりと、花緒は欄干にもたれかかった。まだ、心臓はうるさく鳴り止まない。その高鳴りは、どちらの相手から与えられたものなのか。
(もう……なんなんだろ……私……)
月光を映す川面は静かで、冷たくて。周りには誰もいなくて、異変もなくて。
――誰にも見られていない。静かで涼しい夜に、ちょっとだけ救われた気がした。
* * *
――石肌を這う亀裂の合間から、どろりと墨を流したような瘴気が漏れる。
モモは低く斧を構えたまま、固唾を飲んだ。
「ほな、モモちゃん。相手はまだ動きそうにないな? なら、作戦会議としゃれこもか」
御之の声は飄々としていた。まるで教師――いや、すべてを見通す者のような口ぶりで。
「まずな、ひとつだけ忠告しとく。……モモちゃん、鬼は仏に敵わん」
「……へ?」
モモは思わず振り返ったが、御之の目に冗談の色はなかった。
「昔っから定番や。仏は高位、鬼はやられ役。昔も今もな」
モモの心臓に氷の針が突き刺さった。その言葉は説明ではなかった。運命の宣告だ。
「じゃあ、どうしろって……?」
「勝てん相手と知ったうえで、戦うことや」
意味がわからない。だが、御之の目に揶揄いの気配はない。
「けど、打開の手はある」
御之の表情がふっと明るくなる。さっきまでの緊張感がころっと裏返った。
「鍵は、昔からある"言い伝え"や"おまじない"や。 言うたら――この土地のゲームのルールやな」
つまり、そういう呪術や民間伝承の知識が必要ということだろうか。
「で、でも私、そういうの苦手で……」
「難しく考えんでええ。"夜に口笛吹いたら蛇が来る”とか、“墓を壊したらバチ当たるで”とか、そういうレベルで十分。千年京では、そういう人間が信じてきた"おまじない"が、現実に霊的法則として機能しとる」
それならちょっとは知ってるかもしれない。モモは小さく頷いた。
「よしよし。そしてそこに従えば――“己の在り方”すら書き換えることができる」
「在り方を書き換える?」
「せやから言うたやろ? お試し講座やって」
にっこりと微笑む御之。次の瞬間、不意に顔を近づけて声を低く潜めた。
「――なぁモモちゃん。俺の言うことなんでも聞く?」
「えっ、は、はぁ!? なんですかいきなり!」
モモは真っ赤になって飛び退く。御之の目が揶揄うように笑った。
「勝つためやって〜? “俺の言うことに全部従います”って、誓ってくれたらそれだけでええんやけどなぁ?」
わざとらしくおどけた調子。けれど、その奥にあるのは、やっぱりただの冗談ではない。
モモはしばし睨みつけるように見返し、やがてむくれっ面で口を開いた。
「……変なことしないでくださいよ?」
「せえへん、せえへん♪」
「マジでほんとにやめてくださいよ!?」
「せえへんて♪」
モモはまた片頬を膨らませると、大きく息を吸い込み、羞恥心を押し込める。
「御之さんに、従います」
「よっしゃ、交渉成立やな」
ぱし、と御之の親指がガラケーを打つ。
電子音とともに、空気が劇的に変わる。重力が歪んだように景色が波打った。
「今からお前は、俺の式神や」
「……っえ?」
モモの足元に魔法陣が拡がった。紫の式神文字が身体中を駆け巡る。皮膚が熱を帯び、紋様が焼き印のように淡く光った――否、刻まれた。
額が裂け、光の角が突き出る。爪が鋭く伸び、髪を紫電が走り、瞳が蛇のように細まり、黄金の光が灯る。
その姿は――鬼そのものだった。
「なに……!? これ……私!?」
モモは驚いて身を捩りながら全身を見る。
変化はそれだけじゃない。身体の奥に、もう一つの意思があるみたいな感覚がする。
全身の血管に熱い何かが流れ込んでくるような、味わったことのない感覚。だが不思議と怖くはない。むしろ、身体中が、熱く燃えている。
「モモちゃんは鬼。素では仏に敵わん。 けど、人に使役された存在としての在り方を得れば話は別や」
御之が掲げたガラケーには、ドット絵のモモと式神文字が浮かんでいた。
「俺に従え――《鬼神・桃源童子》。……契約完了」
御之がニッと口角を吊り上げた。
「さあ、問題や。鬼は仏に勝てん。じゃあ、“最強の式神使いに従う鬼神”はどうや?」
「あっ」
その言葉の直後、モモの視界がぐらりと揺れた。
熱い魔力が奔流となって駆け巡る。体の内側から芯ごと灼かれるような灼熱――流し込まれる、御之の魔力。
「当然そいつは――最強のカードになるわけやな?」
御之の瞳が、血のように赤く光った。次の瞬間、道祖堕神から明確な殺意が放出される。
――ゴッ!!
祠から目に見えない無数の手が伸びた。斬撃か霊的攻撃か、それすらも判断不能の暴力的な攻撃。
その時モモの中で御之の声が響いた気がした。
――戦闘開始。
「行け!!」
意志より先に、身体が動いた。斧を構え、風を切る。不可視の攻撃を全て弾き飛ばし、金属音が炸裂した。
「動けた!?」
「どや? これが俺の力、使役の力や」
御之がガラケーを下ろし、にやりと笑う。
「俺は人間以外なら大概なんでも『式神』にして使役できる。まして鬼や。異形の中では別格やしな。我ながらええ仕上がりやろ?」
その言葉に、モモの中で何かが繋がった。
(そうか……! 異形って括りで見れば鬼は強いんだ!それが鬼神になれば……!)
「野生のモモちゃんなら逃げてる場面でも、使役者がおれば命で恐怖に抗える。おまけであちこち強化しまくっといたで」
御之が得意そうに片目を瞑った。確かに、恐怖はあるが体が軽い。これならいける………いや、それどころか、今は――
(戦いたい……!!)
モモの目に、暴力的な炎が灯った。モモの気配が変わるのを感じ、御之が不敵に笑う。
「……そうそう。恐怖すら興奮に変わる。強い相手ほどイカレそうなほど燃えてくるで。今、俺の魔力ガンガン流し込んどるからな。……呑まれたらアカンで!!」
御之が黒いガラケーを扇子のように振り翳した。
ドッ、と灼けるような魔力がモモの全身に注がれる。
熱い、熱い!まるで高濃度のアルコールを血に流し込まれたような――!
「一分間、攻撃に全振りや! 防御はこっちに任せぇ! その間に、 “勝てるルール"を掴め!」
獣のような唸り声と共にモモが飛んだ。
斧を振るい、風を裂く。不可視の攻撃を弾き、爪が閃光のように閃く。
両の手で大地をえぐり、斧は地面を裂いた。 土埃が舞い、モモは膝を突いたまま、荒ぶる息を吐く。
(熱い……意識が飛びそう……! でも……!!)
宙を跳び、斧を振るたび、骨の芯から熱が湧く。世界から言葉と理性が消えていく。
――気持ちいい……!!
モモの目に狂気が宿り、笑みがこぼれた。
止まらない。止めたくない。息苦しさすら気持ちいい。
戦っている今が、一番生きている。
「もっと……ッッ!」
熱が痛みに、痛みが快楽に変わる。唸りは、もはや自分の声ではなかった。
光る糸のような攻撃が首元に迫る。それを御之の式神・クロチが防いだのが視界の端に映った。
「アハッ……!!」
死の一歩手前。首の皮一枚で繋がる命。
(今、私、殺されかけてる――!)
戦う悦びだけが思考を支配していく。壊せ、喰らえ、戦え。そんな声が、胸の奥から突き上げてくる。
――もっと。もっと、壊させてッッッ!!!
モモの目がカッと見開かれ、口元が獰猛に吊り上がる。犬歯がビキビキと牙のように伸びた。
視界の縁が、赤く滲みはじめた――その時、御之の怒声が、鼓膜をぶち破る勢いで飛んできた。
「――呑まれるな言うたやろ!!」
モモがハッと我に返り、弾かれたように後退して御之の前に着地する。
「ハァ、ハァ……っ、御之さん……?」
理性と衝動がせめぎ合う視界の隙間が、御之の姿をようやく捉える。
「今はモモちゃんの恐怖を薄めるために多めに魔力流しとるだけや! このままやと、向こうに押し切られるで!」
耳鳴りの中で、御之の声だけが不気味にクリアに響いた。ゼェゼェと荒い息を吐きながら、モモは汗ばむ手で斧を握り直す。
背筋に、氷を滑らせたような冷気が走った。
(今、戻れなくなるところだった……!)
嫌な気配を振り払うように、モモが勢いよく首を振る。
ダメだ、このままじゃ。あれを倒すには、頭を使わないと……!
焼けるように火照る脳で、必死に思考を巡らせる。
その時ふと、ぽたりと落ちる雫のように、ある疑問が心に落ちた。
(……あれは倒せない?)
仏は、光の化身。不滅で、斬れない。概念そのもののような存在。それがモモの中にある仏神。
(でも、あれは“お地蔵様の堕神”……)
人の信仰の依代。そこに祠があったから、道祖神として祀られてきた存在。
「なら――!」
石畳を踏み砕くように地を蹴り、モモが飛び出す。自らを鼓舞するように、吠えるように叫んだ。
迫り来る攻撃を弾き、祠へと跳びかかる。両腕で、自分より大きな祠を抱え上げる。
裂ける。砕ける。溶けた石の指がボキボキと折れていく。祠の土台ごと、石は悲鳴のような音を立てて引き剥がされる。道祖神の座が、軋むように鳴いた。
「うおおおおりゃあああああッ!!!」
モモが持ち上げた祠を真っ二つに叩き割った。
ズン!!と心臓を殴られたような重低音が鳴る。
石碑に深い裂け目が走る。刹那、地蔵堕神の気配が明確に弱まった。
「……届いたな」
御之が、口の端をわずかに吊り上げる。
道祖神は、ただ旅人を守るだけの神ではない。悪しきものの侵入を退ける、境界の守り手でもある。だが、その存在は依代が壊れれば機能を失う。
理に適った一撃だ。だが、その一手に踏み込むのが難しかった。
神聖な祠を破壊するなんて、相手が化け物だと分かっていても大抵の人間は躊躇するものだ。
――鬼だからこそ、モモは躊躇なくやってのけた。
御之の目が勝利を確信して笑う。
式神として契約を結ぶことで、モモの"鬼"としての神格を『鬼神』まで引き上げ、人間に従わせることで、"人間の為に魔と戦う鬼"という善性を付与。
さらに、御之の魔力によって戦闘力を底上げ。高位の存在に挑む恐怖心を消し、祠本体に触れるチャンスを生み出した。
(つか……あの地蔵相当人間食っとるな……何キロあったんや?あれ)
はてと、御之は首を傾げた。
モモが華麗に宙を舞い着地する。
ぶわっ!!と割れた石から霧状の霊体が吹き上がった。巨大な顔のような形に踊る霊体を見据え、モモが両手で斧を構える。
かつては人を護ってきた存在。だが今は、堕ちた神。
その呪いを、今――
「終わらせるで!」
「はいっ!!」
モモの斧に、桃色の浄化の炎が爆発的に宿る。
その時だ。彼女の瞳に幻が映った。
――真新しい地蔵の前を、子供たちが駆けていく。
誰かが優しく頭を撫で、落ち葉を払った。
笑い声、太鼓の音、花の色、街の雑踏、変わらぬ微笑み。
確かにあった、長い、長い記憶。
モモの胸がぎゅっと締めつけられる。
――それはもう、今じゃない。もう、戻らない過去。
唇を噛み、腹の底で熱くなる感情を押し込んだ。
「あああああああッ!!!」
叫びとともに、モモが霊体に振りかぶる。斧が霊体を叩き切り、桃色の炎が爆ぜるように吹き上がった。
優しく、しかし容赦なく、地蔵の顔を、祠を、炎が激しく飲み込んでいく。
モモにはその口元が一瞬、柔らかな微笑みに解けた気がした。
やがて残されたのは、白く燃え尽きた祠の灰だけだった。




