第17話 「堕ちた道祖神」
闇の中心に、それはぽつんと立っていた。
子供の背丈ほどもある、異様に大きな祠。中に収まる、こちらを向いた地蔵が一体。
頭部は異様に膨らみ、眼窩は溶けたように沈み、眼球だけがやたらと盛り上がっている。何よりその口元は……笑っていない。――無表情だ。感情の読めない唇が、凍りつきそうなほど冷たい。
「……あれ、さっきまでなかったですよね?」
モモがぽつりと呟く。千助の顔色が青ざめた。
「……やばい……やばいって、あれは……」
「知ってるやつですか?」
「たぶん……道祖神的なもんだ。この道を守ってたはずだったお地蔵様だよ……!」
「じゃあ、もしかして、さっき助けてくれたのあのお地蔵様?」
「そうかもしれないけど、そんな単純な話じゃない!」
千助は叫ぶと同時に、モモの腕を力強く引っ張った。
「逃げるぞ!!」
*
石畳を駆け抜ける二つの足音が響く。
千助の息は乱れ、心臓の音は隣のモモにまで聞こえそうだった。
「なんで逃げるんですか!? 味方じゃないんですか!?」
「あれのどこが味方になんだよ!? 明らかにさっきの男ぶっ飛ばされてただろ!?」
千助が悲鳴をあげた。
「この千年京にいる神仏は、もう守り神じゃない! 逢魔の魔力で穢れた魔物なんだよ! 教わんなかったの!?」
千助の声は今にも泣きそうに震えている。
「ヤバさで言えば、あれ、上位クラスだ……!」
経験が警鐘を鳴らしている。動き出す前に逃げ切らなければ死ぬやつだ。だが、手を引かれるモモはきょとんとした顔のまま、小首を傾げた。
「え? お地蔵様って仏様でしょ? でも道祖神って神様? え、神仏しゅーごーってこと?」
「だからぁぁっ!? 役割が似てるから一緒くたにされた歴史があんだけど、そんなの今関係ないのっ!!」
「おお〜詳しいですね……!」
「あ、わかる〜? へへへ、実は大学じゃ民俗学専攻だったのよ〜ってそういうのも今はいいの!!」
千助の混乱した悲鳴が夜の路地に響く。だが——
「……あ」
モモの口から、唖然と声が漏れる。
二人の行く手に、また地蔵が現れた。同じ顔。同じ角度。同じ無表情。
「……ウソでしょ?」
「ルルルルルループしてるぅっ……!!」
千助の胸に吐き気が込み上げる。
周囲の様子もおかしい。風が止み、音が消えている。
いつも高く頭上を舞っている桜の花びらも、人魂も見えない。まるで密閉されたガラス箱の中のような異様な静寂に閉じ込められている。
「やばい……この空間、あの堕神の領域だ……!」
「えっ、堕神……? 仏様なのに堕神……?」
「現代っ子が神仏の分類なんて厳密にできるわけないでしょー!? とにかく、ああいうのまとめて『堕神』って呼んでんの! お役所事情とか今ほんといらないのっ!!」
千助が震える手でスマホを取り出す。
「ああ、あ、あ、亜蓮さんを呼ばないと……!! ……え?」
スマホを取り出すが、画面が反応しない。吸い込まれそうな漆黒の闇を見て直感的に理解する。電池切れとかそういう類の異常ではない。
「電波も切り取られてる……!」
「じゃあ私が倒します!」
「無理だよ! ああいうのは、その場所自体から力を得てる“地の神”、ここにいる限り無敵なんだ!」
千助が眼球を剥き、かくかくと震える首が祠を向く。
「……俺達じゃ、どうにもできないんだよ……!」
その言葉を最後に、千助の意識がぷつんと切れた。
「も……おわっ……た……」
どさりと、千助は白目で崩れ落ちる。
「ちょっ……千助さん!? 千助さーん!!」
モモががくがくと頭を揺らすが、千助の意識はピクリとも戻らない。それどころか、千助の全身から、うっすらと紫がかった“もや”が、ゆらゆらと漏れ出した。
もやは意思を持つかのように揺らめき、地蔵の目元へ吸い込まれていく。
「な、なに……!?」
地蔵の表情が、ずんと深くなった。祠から圧力のようなものが放たれる。ただそこに在るだけで、空気が岩のような重みを持つ。
「こ、このもや……見たことある……!」
昨日、堕神に囚われた人から漏れていた物と同じだ。千助から出てきた何かを、地蔵が喰っている——?
(このままじゃダメだ! 私がやるしかない……!)
モモは一歩、前に出た。意を決して、戦斧に手をかける、その瞬間――祠から地蔵の目がこちらを貫いた。
視界が、闇に染まる。
「えっ」
——闇の中、四方からキンと張り詰める金色の糸。それが、モモの首元を何重にも巻いている。
ひゅっ。
首の絞まる音。次の瞬間、視界が、真っ赤に跳ねた。
「っっっ——!!」
意識が目の前の現実に戻る。全身の毛穴から、ぶわっと冷たい汗が吹き出した。
(い、ま……の……!?)
震える指が首を這う。生きてる。繋がってる。だが、「次はない」ことを、本能が告げている。
(敵わない……!!)
恐怖で、まともに呼吸ができない。
何かに誘われるように眼球だけを動かし、周囲を見回す。建物の影、街路の隅に、屍が点々と倒れている。
(この空間に囚われて、そのまま死んだ人……!?)
そして気づいた。地蔵の台座の、やたらと細部が凝った花……。
(花じゃ、ない……!)
――指だ。無数の溶けた指の折り重なりだ。まるで地獄から這い出ようとした者達の指先が、苦しみを絶望の花のように咲かせているのだ。
筋肉が、思考が、凍りつく。
足が、動かない。
(このままだと、私も——!)
喉がからからに乾き、視界が暗転しかけた。
——その時。
閉ざされた空間に、風が吹いた。
凍てついた時の中に、異質な足音が割り込む。
――コツ、と石畳を踏み鳴らす音。
「……あかんなあ。ナビ役がえらい怖い顔しとるやん」
どこか舐めたような関西訛り。その声を耳にした瞬間、モモの身体がびくりと震えた。
「えっ……?」
見上げると、黒いスーツ姿がまるで煙のようにそこに立っていた。
「御之さん!?」
驚きの声に、御之はゆっくりと肩越しに振り返る。口元に、片方だけの薄い笑みを浮かべながら。
「おう、新人ちゃん。一本道で迷子ってどないやねん」
その軽い一言で、モモの胸が息を吹き返す。
「み、御之、さん……! べ、別行動中じゃ……!?」
「ん? 絶賛別行動中やけど? たまたま迷子の気配がしたから寄ってみただけやで?」
両手をポケットに突っ込んだまま、御之は鼻歌でも歌いだしそうな顔で笑う。
「うちの式神は、異空間やろが他人の結界内やろが追跡可能やからな」
モモの肩に、黒い小さな人型――クロチがぴょんと飛び降り、ちょこんと敬礼する。いつの間にか、御之がモモの髪に忍ばせてくれていたのだ。
「えーと、千助は……。うわ!? 気絶しとるやん! おい! なに戦いの最中に寝とんねん! 起きろ!」
御之がやや乱暴に千助を足で小突くが、千助は白目を向いたままごろりと転がるだけだ。
「アカン……。つか失神してまで『狂愾』出すってなんやねん……」
「うう……御之さん……! 同じ金髪なのに、この安心感の差……!」
「んっなにが? ちょっと何言ってるかわからへん」
モモがぐっと両手を握りしめるのを見て、御之は微妙な顔をした。だが、その表情もすっと切り替わる。
「……ま、どこぞの堕神の結界に閉じ込められたみたいやけど、どうでもええな。俺の方が上やし」
その一言と同時に、空間がざわめいた。祠に潜む存在が反応したのだ。だが、御之は一歩も退かない。
「御之さん……私、あれを倒そうと思った瞬間、身体が動かなくなって……」
「そらしゃーない。モモちゃんは鬼やからな。仏さんとは相性最悪や」
なんとでもなさそうな口調で、御之は告げる。
……そういうことか。
モモの額を、冷たい汗が一筋伝う。
あれに勝てる未来が見えない。それは、鬼の本能が完膚なきまでに負けを認めているのだ。
「本来、道祖神っちゅうのは道行く人を守る神さんや。 せやけど今のあれは、逢魔の穢れにやられて逆に人を迷わせる怪物になっとる」
その堕神は、かつては人々が思いを寄せてきた慈悲の化身だったはずだ。だが今は、人を惑わせ、閉じ込め、祈りの手を引きちぎり、絶望で支配する。呪詛と怨嗟の塊。
「今あいつが動かへんのは、まだ俺らがただの通行人やからや。けど、倒さん限り脱出はできへんな」
「じゃ、じゃあやっぱり亜蓮さんを……!」
「いらんいらん、あんな脳筋!」
ひらひらと手を振りながら、御之はあっけらかんと笑った。
「それに、毎回あいつに頼っとったら、モモちゃん、永遠に前座のまんまやで?」
モモの胸がズキンと鳴った。
「モモちゃんの"一緒に戦いたい"っちゅーんは、俺らの下っ端になりたい訳とちゃうやろ?」
サングラス越しの瞳が、楽しげに光る。
「ええか。こういう時こそ、腕っぷしだけやのうて、“ここ”使わな」
御之は指先で、自分のこめかみをコン、と叩いた。
「そんでな……こんなおもろい獲物人に譲るなんて、めっちゃつまらんと思わん?」
不敵な笑みが浮かぶ。禍々しい祠を前に、それを舞台のように楽しむ男。
その瞬間、モモは悟った。この状況を面白いと感じる御之こそが、目の前の堕神よりも異常で、強大で、そして何より異質な存在だと。
――逃げられない一本道。敵は格上。でも、この人が隣にいれば、どんな地獄も、突破できるゲームに変わる。
「……やります。やれますっ!」
モモが拳を握る。動かなかった足が、一歩、前に出た。怖さはある。けれど、それ以上に――燃えている。
(そうだ。私はみんなの手伝いがしたいわけじゃない。前座をやりたいわけじゃない。)
――肩を並べて、背中を合わせて戦いたいんだ。
モモの闘志を感じ、御之がぱっと顔を明るくした。
「おっ、ええやん、ええやん! やる気ある子は先生大好きやで! ほな、今回は、特別講義つきの初陣でいこか」
御之がサングラスの眉間を軽く押さえる。どこまでも楽しげに、どこまでも挑発的に。
「授業料は……初回サービスでまけたるわ」
不意に低くなったその声音に、モモはごくりと喉を鳴らした。この人はきっと――笑いながら、戦いに命を賭けるタイプの人だ。
「仏やろうが、鬼やろうがどうでもええ。そんなもん……俺には関係あらへん」
呟いた御之の瞳の奥が、明確な怒りを帯び冷たくなる。
風が唸り、祠がきしんだ。また、御之の口角がふっと笑う。余裕の手つきで、胸ポケットから黒いガラケーを引き抜いた。
「さあ、モモちゃん――世にもおもろい仏と鬼の逆転劇、体験させたるわ」




