第16話 「野良退魔師」
――アジトの小さな門の外。
夕闇に沈む石段の上、亜蓮がひとり佇んでいた。手にした錫杖を見つめ、微動だにしない。
錫杖は曇りひとつない濃く澄んだ黄金色だった。これは希望だ。まるで、この世の全ての清浄をひとところに宿したかのような。
だが、これを持つ資格があるのか自分にあるのか今でもわからない。
だって、本当にこれを持つべきだったのは自分ではなく。
本当に生き残るべきだったのは……自分ではなく――。
「……」
僕さえいなければ、姉さんは――。
僕さえいなければ、花緒は今頃何の迷いもなく慈雨月と――。
目を伏せ、祈るように息を整える。重い何かを、覚悟一つで心の底へ押し込めるように。
亜蓮が静かに錫杖を手放した。宙に浮いた金色の杖は光の粒となり、音もなく手から消える。
「亜蓮さん!」
小さな足音を響かせ、駆け寄ってきたのはモモだった。呼びかけに、亜蓮は少し曇った表情で振り返る。
「……どうしたの?」
「あの、すいません、どうしても……! ほんの少しだけ、時間いいですか!」
モモが胸の奥で、暴れる心臓を押し込める。
「千助さんに聞きました。……結界って、みんなの避難場所になる、大事なものなんですね」
一呼吸置き、モモは小さく頷く。
「……それで、あの、私……」
靴音を揃え、顔を上げる。そして、深く息を吸い込み勢いよく頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございました!!」
亜蓮の目が僅かに丸くなる。
「はぁ……やっと言えたぁー」
モモは胸に手を当て、少し上気した笑顔でほっと息をついた。
「私、亜蓮さんに助けてもらったとき、思ったんです。 かっこいいなって! 正義の味方みたいだなって。 ヒーローみたいだって……」
だが……亜蓮は困ったようにそっと視線を逸らした。
「……モモ、悪いけど……」
言葉を選ぶように、でもはっきりと亜蓮は否定する。
「僕は、ヒーローをやるつもりは、ない。誰かにそう思われたいとも、思ってない」
冷たい風が吹いた。白いヤマボウシの花びらがひらりと舞い、石段に舞い落ちる。呆然と立ち尽くすモモに、亜蓮は悲しそうに視線を落とす。
「……がっかりさせて、ごめん」
小さく呟いて、背を向ける。振り返りもせず独り歩き去っていく亜蓮の背中を、モモはただ見送るしかできなかった。
ただその背中には、見えない無数の深い傷が焼き付いているみたいだった。
* * *
――和の趣がノスタルジックな街並みと、石畳の一本道。
頼りないオレンジ色の街灯の下、景色のほとんどが闇に沈んでいる。
黒い影や妖怪たちが行き交う大通りを、モモと千助は建物の影から伺っていた。
「——っていう話をしたんですけど、千助さんどう思います?」
通りを警戒する千助の顔を、モモが覗き込んだ。腰には、金色の戦斧がいつでも振るえるように固定されている。
一方、千助はギンギンに目を見開き、荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁ、はぁ、だめだ……やっぱり無理……! 俺には無理……! 今はダメ、今はダメだっ……! 絶対見つかる、見つかるよこれ……!」
「ねえ、聞いてます?」
「チョットォ!!」
ギャンッ!と子犬みたいに声を上擦らせ、千助が振り向く。
「今、一触即発なんですよ!? 見てわかるでしょ!? 集中しなさいっ! メッ! メッ!!」
モモは「こっちだって大事な話なのに……」と言いたげにむすっと口を尖らせた。
「モモちゃん、確認だけど、俺は暁月のメンバーでも無いし戦闘無理だからね? 一般人だからっ、戦うのはモモちゃんだからね? なんかあったら俺のこと守ってね、一般人だから!!」
「はあ……」
それはおかしい。千助が本当にただの一般人なら暁月にははずだ。情報提供者というポジションを守りながらも、亜蓮に協力を求められる説得力が、彼にもあるはずだ。
「……そういえば、さっきから全然堕神達に見つかりませんね。 こんなにたくさんいるのに」
「当然でしょっ、ちゃんと対策してるんですっ! 俺みたいなのは見つかったら一巻の終わりなんでねっ!」
千助はため息をつくと、羽織の懐に手を入れる。取り出したそれは目に鮮やかな緑色をしていた。
(青紅葉……?)
そういえば、千助は昨日の堕神戦も無傷で生き延びていたし、あれだけ敵の数もあったのに一度も見つかっていなかった。
モモが興味津々で千助を観察する。千助は指先で挟んだ青紅葉を額に当て、汗だくになりながらぶつぶつと何か呟いていた。
注意深く耳を澄ますと――。
「――違うよ、この子の方だよっ!頼むよ……俺じゃなくてこの子のためだと思ってさ……ほら、まだ若いのに色々背負ってんじゃん……」
千助が、青紅葉に必死に拝んでいる。
「ね、可哀想だと思わない? ね? そういうとこ、君は分かってくれると思ってたんだけどなぁ……。あ、いや、文句じゃないんだよ!? いつも感謝してますよ!? もう最高っす! だからほんと頼む、頼むよぉ……」
(……呪文……ていうか神頼み……??)
モモの眉間に皺が寄る。この謎の神頼みが千助の秘密の一端……なのか?
すると、千助がすっ——と息を吸い込んだ。
「——《木隠》」
青紅葉が千助の指を離れ、宙に浮かび上がった。意思を持つかのようにふわりと舞い、周囲に小さな風が渦巻く。
目の前の景色が、水に溶けるようにぼやけた。周囲の音が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは、梢を渡る風の音、澄んだ森の匂い。
風の気配が消え、千助が息をつく。
「これでよし……」
「すごい、今の魔術ですよね!」
「いや、仙術、ってやつ……。まあ細かいことはいいけど……。これで、敵に視認されずに歩けるよ。でも、全く見えなくなるわけじゃないから気をつけてね、気づかれにくくするだけだから……」
「へぇー、わかりました!」
「あ、ちょ、ちゃんと注意してよ!? 一度見つかったら効果切れるからね!!」
「りょーかいです!」
モモが大通りへ踏み出した。妖怪達はモモに気づかず、するすると体の横を通り過ぎていく。まるで、川を流れる木の葉が、水の流れに沿って自然と障害物を避けるみたいだ。
「な、なんなのあの子……平気で出ていっちゃったじゃん……」
見守っている千助の心臓の方がバクバクと鳴っている。
(え、ええ〜……なんであんなに普通にしてられるんだ……? もしかして、あの子自身が鬼だから異形に対する恐怖心が薄いのか……?)
モモは反対側の路地に辿り着き、片膝をついた。
「これかな」
モモが石柱に手をかざすと、モモの手から魔力の光が石碑に流れ込む。薄ぼけた光の文字が浮かび上がったが、モモの魔力を受けると鮮やかに輝きを取り戻した。
「これでいいのかな」
『よし、再活性化成功』
「えっ……!? 声、耳に!? うわあっ!?」
『あはは、ごめんごめん……』
千助の気の抜けた笑い声が耳に響く。モモは驚いて耳を押さえている。
「ちゃんと見てたよ。これでこの結界はしばらく大丈夫』
「千助さんって不思議な術を使うんですね!」
『俺からすれば、平気であんなのと戦う君らの方が不思議だよ……』
千助がげっそりと呟く。
その時だった。
「おや……? こんな夜更けに、見ない顔だねぇ」
モモの背後から、ぬるりとした声がした。振り返った先に立っていたのは、皺の寄った僧服に金髪の男。
肩にぶら下げた札束のような護符と、数珠にも見えるアクセサリーをこれ見よがしに揺らし、やたら親しげな顔で近づいてくる。
「こんな夜道をうろつくもんじゃないよ? 特に君みたいな、運のなさそうな人相の子はね」
にこり、と退魔師風の男が笑った。
『ヒィーーッ!! 出たァーーッ!!!』
(今、なんか失礼なこと言われた気がする)
千助が情けない悲鳴をあげる一方で、モモはムッと眉間を険しくする。
(ていうか……この人、国家退魔師隊の人?)
訝しむようなモモの視線に、男があっさり反応した。
「ああ、ごめんごめんそんな顔になるよね。俺、国家の人間じゃないけど、この辺はよく回ってるんだ。困ってる子、いないかな~って」
「へえっ!」
モモの目がぱっと輝く。あっさり警戒を解いてしまったモモに、千助は慌てた。
(そ、そうだ! 俺の《木隠》は本人の警戒心が前提だから、モモちゃんは人間には普通に見つかるんだ……!)
『モモちゃんっ! なんとか有耶無耶にして、穏やかにかつ穏便にこの場を離れてッ!!』
「え? でも、相手も退魔師なら仲間なんじゃ……?」
『いいから言うこと聞いてェッ!! 国家のバッジつけてないやつは下手な妖怪よりタチ悪いの!』
千助の声が裏返る。男はニコニコと笑ったまま、懐から札を取り出した。表面には退魔印らしき刻印が押してある。
「ちょうど持ち合わせがあってね。魔除けだよ。ちょっとした妖怪や魅魅蚓くらいなら弾ける特別なやつ」
「えっ!?本当ですかっ!」
「うん。一枚1万円。しめて3万円ね」
「えっ」
うっかり札を取ってしまったモモの手が止まる。
「これ、売り物だったんですね?」
「当然だろ? 命削って作ってんだからさぁ」
ドス黒い笑みを浮かべたまま男が迫る。その顔を見て、モモはふと、ある可能性に気づいた。
(もしかして……亜蓮さんたちが表立って動かないのって、こういう野良退魔師が怖がられてるから……?)
その時、男の視線がモモの腰の斧に引っかかった。
「チッ……んだよ、同業か」
一転して、男の態度が変わる。今度はぶっきらぼうに手を差し出してきた。
「まあいい、金がねぇなら『幽石』だ。一つで手を打ってやる」
幽石?聞き慣れない単語に、モモは首をかしげる。
(そんなのみんな持ってたっけ……?)
「すみません、持ってないです」
一瞬、辺りの空気が凍りついたようだった。男の笑みがこわばる。
「は? とぼけてんじゃねぇよ。弱い退魔師は、強い退魔師に幽石を献上する。それがこの辺のルールだろうが」
男が威圧的に踏み出す。
「この界隈の幽石は、もうみんな俺がもらっちまったからなぁ」
まさか、手を出してくるつもり?モモが狼狽えながら、後ろの戦斧に手をかける。
「……ふん? やるっていうのか? 俺はいいぜ?」
どうせ人を斬れやしないとわかって、自信満々にニヤリと笑う男。ダメだ……相手は人間だ。モモの手が強張る。手は出せないが、相手も引く気配はない。
「もういい、面倒臭え。その手斧で手を打ってやる」
伸びてくるごつい腕。その瞬間だった。風を切る音と共に、男の身体がくの字に折れ曲がった。
鈍い衝撃音。横殴りに吹き飛んだ男は、建物の外壁に叩きつけられてずるりと崩れ落ちた。呻く間もなく気絶し、白目を剥いて動かない。
――カラカラ、カン、カン……!
服の袖から、乳白色の石の玉がいくつもこぼれ落ちる。いくつかの石は、ぼんやりと黒ずんでいた。
「……!? な、なに!?」
「モモちゃん!!」
駆け寄ってきた千助が、男の様子を見て青ざめた。体に巻き付けていた大量の紙札が衝撃を和らげたのか、かろうじて生きてはいる。が、意識はない。
「やば、完全に一撃……。モモちゃん……君って子は……」
「わ、私じゃないです!! 本当に!!」
モモが必死に両手を振ったその時、千助が石畳に散らばった石に気づいた。
「わっ、幽石がこんなに!? ……こいつ、他の奴から奪ってたんだな……」
「これが幽石ですか?」
「そ、瘴気を吸ってくれる石だよ」
千助は一粒一粒拾って、取り出したハンカチに乗せていく。
「一般の退魔師は、俺達みたいに浄化した魔力を溜めとくなんてできないからね。魔力を使った時に取り込んじゃう瘴気を、こいつで浄化するんだ。まあ、これにも限界があるけど」
千助が、真っ黒に黒ずんだ石をモモに見せる。瘴気を限界まで吸い込むと、色が漆黒になるのだ。
「じゃあ、それをたくさん持っていれば魔力もたくさん使える、ってことですね」
「そう。だから奪い合いになるんだ。これも持ち主に返せたらいいんだけどな。困ってるだろうから……」
千助がハンカチに包んだ幽石をポケットにしまった、その時だ。
二人の背筋を、氷のような気配が這い上がった。
「「——!!」」
視線だ。二人は反射的に同じ方向を振り返った。
薄暗い石畳の道。そのど真ん中……確かにさっきまではなかった。無表情の地蔵が鎮座していた。




