第15話 「ブリーフィング」
御之は昨夜の大空洞にもう一度戻っていた。いつもの軽薄な笑みは消え、周囲に注意深く目を配る。
……昨日ここで戦った堕神は、何かが違っていた。
得体の知れなさ。本能に訴える恐怖。底知れぬ存在感。どんなに戦い慣れた者でも、彼らを目にすれば潜在意識が反応する。そして本能が警告する。――こいつには手を出してはならない、と。
……それが本来の堕神というもの。そして、その恐怖を剋して神を狩るのが退魔だ。
もともと神や妖として信仰を集めていた存在が魔に堕ちる。そうして生まれるのが『堕神』であり、その禍々しさには畏怖の感情がつきものだ。
だが――あれはまるでただの“敵役”みたいだった。用意されたボスキャラと戦わされているかのように、迫ってくる力は強大だったが、恐怖はなかった。
亜蓮も言っていた。いつもの堕神と何か違う、と。
「……つっても、やっぱなんもあらへんかぁ」
予想はしていたものの、御之はため息をついた。亜蓮の浄化の力を介して倒した堕神は、塵一つ残さず完全に滅却されるのが運命だ。
だが、今回ばかりはもしかするかもしれない。そう御之の直感が告げているのも確か。
――ガコッ。
「ん?」
御之が足を止め、音のした方を向く。
瓦礫の隙間に、横向きの小さな白い顔。
……切れ長の細い目が、こちらを見ていた。土埃にまみれた男雛だ。ひなまつりで雛壇に飾られているものと造形は同じ。
「……なんや、お前か」
御之は大して驚きもせずそれを拾い上げ、ぱっぱ、と手のひらで土をはたく。古びた深紫の着物の色がかすかに蘇った。その人形の顔は――何かを訴えかけているような表情をしている。
「なるほどな……昨日のあれ、お前やったんか」
不意に腑に落ちた。
――付喪神だ。
長い年月を経た物体に、魂や念が宿り神性を得た存在。昨日の堕神は、この男雛が変じたものだったのだろう。
「えらい男前やん、なぁ? 昨日は残念やったなぁ。そのままの方がまだワンチャンあったで?」
茶化すように言いながらも、御之は人形の顔についた泥を指で拭ってやる。
「……ん?」
その時、袖口に妙な違和感。
御之が視線を落とす。
男雛の小さな手が、自分のスーツの袖をしっかりと握っていた。
布の中で、何かがきらりと光っている。そっと取り出すと、それは砕けた小さな黒い石の欠片だった。
「なんや? ガラスか……?」
指先に僅かに力を込めると、それはあっけなく砕け細かい砂となってこぼれ落ちる。
御之と男雛の視線がぴたりと合った。
人形の細い目が、意志を持って御之を見返している。
御之がふっと笑った。
「……なるほどな」
御之は、丁寧に人形の前髪を整えた。
「任しとき。お前の仇は俺がとったる」
着物の裾を丁寧に整え終える。
「情報提供ご苦労さん。もう休んでええで」
ゴウッ――!!
瞬間、男雛が発火した。
男雛の全身が白い炎に包まれる。炎は音もなく燃え、やがて人形は真っ黒な塊となって崩れ、灰となり闇に消えた。御之は残った気配を見送り、金色の瞳を細めて笑った。
「さ、どうするかな――」
* * *
「ったくよぉ……。俺は正式メンバーじゃないのに、なんでこう毎晩毎晩呼び出されんだ……」
――夕刻。
ぼやきながら土間の魔法陣から現れたのは千助だった。
無害そうな顔をしておきながら、あれでなかなか人使いの荒い亜蓮。
常に人を小馬鹿にした態度の御之。
そして、常にピリピリと神経質な花緒の鋭い目つき。
戦闘民族さながらのメンツを思い出し、千助の口から重たいため息が出る。
だがまあ、千年京でも一目置かれる実力者達から頼りにされるのは、ちょっと悪い気はしない。
何を隠そう、今回のモモの生贄事件を予見したのは千助だ。
――未来視。
この力のお陰で、亜蓮達は事前に起こりうる事件を察知し、国家退魔師隊を先回りして堕神を狩ることができる。千助の貢献があるから、彼等はあのヒーロー然とした派手な救出劇を演出できるのだ。
だからそう、俺はもっと堂々としていい。そうだ、今日こそあいつらにギャフンと言ってやる。誰のお陰で最強勢力名乗れてんですかって、全部俺のお陰でしょーが!たまにはいつもありがとう助かってるよ〜♪くらい言ってくれてもいいじゃんか!いつも当たり前の顔して人のことこき使いやがって!あーーむかついてきた!
勢いづいたまま、千助は引き戸を開け放った。
「はいはい! 来て差し上げましたよ! 全く、ほんと俺がいないとアンタら何もできな――」
が、目にした光景に凍りついた。
静まり返る部屋。長テーブルを挟んで、花緒とモモが、お通夜のような沈黙の中向かい合って座っている。
「……」
「……」
「……」
3人分の無言が部屋に充満する。空気が、凍りついている。
(えっ……なんなのこれ……? きっつぅ……)
明らかに様子がおかしいのは花緒だった。いつものピリピリとした緊張感は消え、抜け殻みたい何もない空間ぼんやり見ている。モモが助けを求めるような目で千助を見上げた。
(か、帰りたぁ……)
目の前の二人を見比べ、迷った末モモの隣に腰を下ろした。モモに顔を寄せ、小声で囁く。
「なんかあったの?」
「あったにはあったんですけど……」
モモは花緒に視線をやりながら言葉を濁す。千助がさらに口を開こうとしたその時、奥の扉が開いた。
「……揃ってるね」
冷静な声が響き、亜蓮が部屋に入ってくる。花緒の肩にびくっと緊張が走った。
「……」
亜蓮が花緒を一瞥する。何も言わず、視線をひと通り巡らせた。
「……始めようか」
そのまま、空席――花緒の隣の席に腰を下ろし、分厚く折り重ねられた地図を広げる。
それを見た瞬間、モモの背中に冷たいものが走った。広がっていたのは、元はどこにでもある住民用の地図――だったはずのものだった。
(なに、これ……)
モノクロに拡大コピーされた地図。その上から、現実を侵食するかのように赤や黒のマジックで異界が上書きされている。
中心には、真っ黒に塗り潰された真円。その上から、赤ペンの太字で警告するようにはっきりと書かれた《禁域》の文字。
「これが千年京ですか?」
「そうだね」
亜蓮が静かに答え、モモは思わず唾を飲んだ。
地図が無言で物語っている。
ここが――戦場。これが、この地を覆う闇の全景だと。
「ここが、国家退魔師隊の本部」
初めて見るモモでもわかるように、亜蓮が説明を始めた。まず、禁域から程離れた一点を指差す。
「そして、こっちが僕達のアジトの位置」
亜蓮の指が地図の上を滑り、地図の端、森の中を指差した。
歪んだ層状に区切られた《市街エリア》、《居住エリア》、それら全てを取り囲むように広がる《森林エリア》。
国家退魔師隊の本部は市街エリアに、アジトは森林エリアに位置していた。
そして、黄色の線が血管のように這い回る──龍脈と龍泉のルート。
神社や寺、路端祠の地図記号、墓地などは、赤いペンで上から目立つようになぞられていた。そこに祀られている者、つまり危険な存在があることを強調する赤色。
瘴気の濃度を表す紫の濃淡は、地図の端から中心に向かって濃くなり、最も濃い漆黒の一点に吸い込まれていく。
「まず、国家退魔師隊にこちらの動きが探られていることがはっきりした。監視されている、と考えた方がいい」
「えっ! なんで!?」
「うっ、やっぱそうなるんすね……」
モモが驚いて視線を跳ね上げたが、千助はこうなることを予想してたのか、青い顔で目を瞑る。
「市街エリアは監視が厳しい。特に、平門 氷室と、彼の率いる遊撃隊には気をつけて」
「ひ、平門 氷室!!? まさかやり合ったんすか!? 何で!? 何やってんすかあんたァ!?」
「君達が暁月の関係者だということ、そして、君達の使う力のことも、誰にも話さないように」
「うわーーーっ最悪だーーーっ!! 国家敵に回したあああああもう終わりだーーっ!! おまわりさーーん! ここですよおおおお!!!」
「特にモモ、君は国家退魔師隊とまだ会ったことがないね? 不慣れなことも多いから、単独行動は取らないように。必ずメンバーの誰かと行動して」
「わ、わかりました……」
「イヤーーッッ! ツッコミ不在っ!!? やめてー!! 誰にも話さないから泳がせないで!!!」
千助が頭を抱え、跳ね上がってソファに倒れる。
(なんで……? みんな悪いことしてるわけじゃないのに……)
モモの拳に、緊張で力が籠る。だが、疑問が口に出るより先に思い出したことを問いかけた。
「あれ? そういえば御之さんは?」
「今は別件で動いてる。戻りは未定」
「うう……大丈夫だよ……御之さんの別行動はいつものことだし……」
千助が苦笑して手を挙げた。わざと重苦しい空気を和ませようとしているみたいだ。
「もう一つ。明日の夜、居住区の交川大社で祭りがあるらしい」
「えっ! 交川大社っつったら、厄祓いで有名なパワースポットじゃないっすか!」
珍しく千助の声が明るく跳ねて、モモはちょっと驚いた。
「千助さん、神社とか好きなんですか?」
「うん。ここはいいよ〜。ガチパワースポット! 境内に湧き水の小川が流れてて、朱い橋が何本もかかってて綺麗なんだよ」
「へぇ〜!」
「主祭神の黄泉橋坐大神は浄化済みだけど、明日は人が多く集まることになる。何か起こる可能性が高い」
「神様も妖怪も、お祭り好きが多いすからねぇ。こんなところでドンチャンやっちゃ、絶対変なの呼び寄せるでしょ……」
「千助、今回は何か視えてるものはない?」
――視えてるもの?千助の未来視の力を知らないモモは目をぱちくりさせる。千助は気まずそうに顔を歪めた。
「いや、ないっすねぇ……。そもそもそんな都合良く視せてもらえるもんじゃないんで……」
「わかった。……念のため、御之を除く全員で、警戒に行く。各自戦闘の準備をして、明日夕刻までに現地に集合してくれ」
瞳に強い警戒心を宿し、亜蓮が全員の顔を見渡す。が、モモはお祭りのワードにどうしても気が浮かれていた。祭りというくらいだから出店もあるんだろうか。
「じゃあ、りんご飴ありますかね!?」
「えっ!? ……あ、あるんじゃない……かな……」
亜蓮が不意打ちをくらってびくっと肩を強張らせた。さっきまでの冷静さがぽろっと仮面のように落ちて、露骨に挙動不審になる。
「いやいや、この話の流れでりんご飴って、君どういう神経してんの……!」
「……警戒してばかりでは周りを不安にさせるだけですし、モモさんには客のふりをして、巡回を頼んではどうでしょうか」
ドン引きする千助に対し、意外にも柔らかい反応を見せたのは花緒だった。穏やかな目で、亜蓮へ、そしてモモへ視線を送り、微笑む。
「……支障がなければ、楽しんでみるのもいいと思います」
「よっしゃー! りんご飴ぇ!」
「花緒さんが……笑った……」
千助はそっと視線を伏せ、震える声で呟いた。
「……俺には、笑ってくれたこと、ないのに……」
モモの「祭りだー!!」という叫びが、千助の嘆きを掻き消す。その様子に、亜蓮も頷くと表情が柔らかくなった。
「そうだね……何も起こらないうちは、みんなも楽しんでもらって構わない。滅多にない機会だから」
話が一区切りついたのを見て、亜蓮が千助に視線を向けた。
「千助。このあと、モモと一緒に居住区の結界を巡回してくれ」
「……えっ、え、俺ぇ!?」
「えーっ! また一人で行っちゃうんですか!?」
身を乗り出すモモに、亜蓮は申し訳なさそうに立ち上がった。
「目をつけられてるのは僕だから、しばらくは一人で動くよ。……何かあったら連絡して。なんとかするから」
「うう……頼んますよ!? 死んだら祟って出ますからね……!?」
「やっと一緒に行動できると思ったのにぃ……!」
「ごめんね。明日には会えるから」
亜蓮は微笑ましそうに目を細めると、花緒に目線を落とす。
「花緒は大社の下見に行ってほしい。ルートと警備の位置を洗っておいてくれ。それと結界の確認も」
「わかりました」
花緒も真っ直ぐ亜蓮を見つめ、頷いた。どこか硬さのあった二人のやりとりが僅かに柔らくなっていて、モモがホッと胸を撫で下ろす。
「それじゃあ、明日現地で」
亜蓮は微笑みを浮かべてから、背を向けて部屋を出ていく。モモは悔しさを爆発させてソファの背もたれに倒れた。
「あーくっそー! 亜蓮さん、また一人で行っちゃった!」
「たぶん、それが一番目立たないんだよ。あの人、自分が目立ってるって自覚してると思うし」
千助の答えは理屈としては正しい。けれど、モモの中の寂しさは増していく。やっと何か話せるかもと期待していたのに。
その時、不意に花緒が立ち上がった。
「モモさん」
「はいっ! じゃなくって、えっと、何!?」
思わず背筋を伸ばすモモに、花緒はスマホを差し出した。
「私のスペアです。 連絡手段として持っていてください」
「あっ、ありがとう……!」
「退魔師は夜の仕事です。明日のためにも、なるべく体力と魔力は温存を。今夜の巡回も、必要以上の戦闘は極力避けてください」
マニュアルめいた言葉でありながら、声には優しさがこもっている。それが、モモにはすぐに伝わった。
「私は偵察ポイントが遠方なので、今夜は戻れないかもしれません。明日、現地で会いましょう」
「うん。花緒も、気をつけてね」
スマホを受け取りながら、モモは花緒の目を探した。目が合った瞬間、花緒は少し困ったように微笑む。その微笑みに、千助の背中に電流が走った。
(は、花緒さん……! さっきまであんなに硬い感じだったのに……! これはもしかしなくても、モモちゃんの天然が場を緩めたということ!? 俺だってムードメーカー枠狙ってたのに!!)
「お気をつけて」
自分には一瞥もくれず花緒が部屋を出ていき、千助はがっくりと項垂れた。
「もういいよ……俺みたいな金魚も掬えない奴が……空気なんか救えるわけねえじゃん……」
「えっ! 千助さん金魚掬えないんですか!!?」
モモが今度こそ空気の読めない声を上げ、千助はソファに沈むのだった。




